シャワーを浴びて出てくると、ふかふかのクッションに寝転びながら、

ベットの上で紫龍が本を読んでいた。

それ自体はさほど珍しい光景ではない。

目が悪くなった時期も恋しいからと、宮沢賢治の童話やら、

詩集やら草花辞典やらを枕の代わりにしていた奴である。

「何か手元にないと落ちつかなくってな」紫龍は云った。

「でも、読めなきゃつまんないだろうが」

 そうでもないよと、紫龍は答えた。

「本は知識を吸収するだけじゃないからな」

「じゃあ、何だ?」

「……良く判らないが」と、紫龍は言葉を選んだ

「この中には、白い行と行の隙間にはときめきが眠っているんだと思う」

 だから、こうしているだけで結構、幸せと、

冷たい肌の温もりを確かめるように、

そうやって愛しげにすりすりと頬を寄せるので、

「それ、読んでやろうか?」

「えっ?」と、紫龍の表情が止まった。

「だが……」

「お前がイヤなら、止めるが……」

「……イヤじゃない」ぶるん、ぶるんと紫龍が頭を振った。

珍しく言葉ではなく、子供の仕草が喜びを表していた。

それから、氷河はシェラザードのように、

紫龍の夜の同じベットの上でお勤めを務めた。

が、人に本を読んで上げるというのは、思ったより重労働であった。

それでなくても、余り口を動かさない氷河が、

20分も30分も立て続けに声を出すというのは、はっきり云って苦痛である。

喉もすぐからからと乾いてしまう。

それでも氷河はこの眠る前の儀式のような時間が好きだった。

と、いうより自分が読むものを黙って聞く紫龍が大好きだった。

身じろぎもせず、全身を耳にし、句読点も、

読めない字のためにある辞典をめくる奇妙な間さえも、

聞き漏らさないようにする。そして、時には微笑みを浮かべ、

小さなため息を付く。そのまま眠りに就いてしまうこともあるが、

それはそれで、その安らかな寝顔は満足に溢れていた。

 二人だけしか知らない魔法の時間であった。

 が、紫龍が一人で黙々と、自分さえも無視して本を読んでいるのは、

氷河は大嫌いであった。

「何読んでいるんだ?」

これの答え具合によってちゃちゃを入れていいか、

それとも一人淋しく眠りに就くかが決まる。

「うん。アラビアント」と、即座に答える辺り、

まだ、あっちの世界には行ってないと見える。

離陸したばかりの飛行機と云ったところか。

いまなら本を取り上げても、大丈夫だろう。

 しかし、アラビアンナイト。

九百九十九人の妻を殺したペルシアの王に千番目の王妃、

シェヘラザードが語る寝物語り。

 彼女が千夜の夜を紡ぎ終わった時、

王さまと王妃さまは幸福な結末を迎えるのだ。

彼女が語った物語のように。

薄いベェールに包まれた美しいお姫さま。

勇気しか持ち合わせない若者。悪い大臣。幅の広い刀。駱駝。

それから空飛ぶ絨毯と魔法のランプ。

 偉大な空想力と不思議に満ちた大ロマン。

 似付かわしくないと、云えばそうかもしれない。

昔、これを読んでくれと云われた時も、

何だか奇妙な感じがして、しばし、黙って見比べていると、

「駄目か?」と、残念そうに呟いた。

 その親に叱られた子供の顔に、氷河の胸が微かに鳴った。

そんな紫龍の顔を見るのは、初めてであった。

気が付くと氷河はいつものようにページを開いていた。

 急いで大きくなったのだ。時にはこうゆう子供に戻る時間が必要であると思う。

それは忘れられない優しい思い出として胸に刻まれるのだ。


とは思うが、アラビアンナイトである。アラビアの民話集。素朴で楽しい物語り。

のはずなのだが、脳ミソの端で引っ掛かるものがあるのだが、

考えても何も浮かばなかった。

ただ、シグナルのようにこれを読ませてはいけないと、誰かが告げていた。

「止したほうがいいと、思うぞ、それ」と、氷河は本を取り上げながら云った。


「確かに子供向きの所もあるが、スケベだぞ、それ。

性表現が大らかというか、のびやかというか……。

それに昔、俺が読んでやったじゃないか」

「それってもしかして、記憶を無くした男の、

でも少女を愛する意識だけが、怪しげな白いマントを被り、

月影のナイト様をする話か?さらばだ、アデューって」

「何かそれって、今は無きRの、

しかも三ヵ月しかやらなかった幻の魔界樹編だな」

「そうだったのか」

 少し紫龍が怒ったように云った。

「それより、何でお前がそれを知っているんだ?」

 恐い考えが急に氷河の思考を支配した。

 まさか、夜中にこっそりベットから抜け出して、

俺の秘蔵のLDをこっそり見返しているのでは、あるまいな。

「ちーがーうよ」と、紫龍はにべもなく言い返す。

「フッ、しかし亜美ちゃんは俺のもんだ。いくらお前でも譲れん」

「違う!!」

そうして、紫龍は恨めしそうに氷河を見た。

「 お前、本当に覚えてないのか?」

「何を?」

「だーかーら」氷河と付き合うようになってから、何度目のため息か。

「お前が話してくれたんじゃないか」

「いつ?」

「だから、千夜一夜の代わりに」

「おお」氷河は漸く思い出した。モヤモヤが吹き飛んだ。

ページを開いたのは良かった。

しかし、紫龍が持ってきた城戸の図書室にあるハード・カバーはおまけに、

古い本らしく、書体も文体も昔のものだった。

ゑとかゐなんて氷河は知らない。紙も黄色でよれよれしている。

 しかも、読めなかった。仏語とロシア語はいけるのだが、

漢字は読めなかった。難しかった。

 しかし、にこにこと無言の圧力で続きをせがむ王さまに、

氷河は真実を伝えることは出来ない。

 まてよ……、凍り付いた脳ミソをフル回転させる。

アラビアナイトは昔、マーマに読んでもらったことがあった。

大体の粗筋は覚えている。スットクはあるから少しは大丈夫だろう。

それでも、もしも、王さまが物語を所望ならば……。

作るしかなかった。シェラザードのように。

だが、氷河に文才はなかった。で、仕方がないので、

毎週、見ていたセ▼ラ▼ム▼ンの話を聞かせていた……。

……そんなコトがあったような気がする。

「気じゃなくて、あったんだよ、実際」

 ぷぅーと、紫龍が膨れる。

「氷河の時は中断されたから、

今度は自分でちゃんと読んでみようと思ってな。

でも、読み始めたら、大分、記憶と違っているだろう。

おかしいなあと思ってたんだけどな……」

 そこで、紫龍は大げさにため息を付いた。

「騙されていたんだな、俺」

 ちろりと毒を含んだ睨まれる。

「お前って、最低な奴だったんだな」

「そうとも云うかもしれないが……」

その拗ねてしまったお姫さまに、氷河は云った。

「でも、お前、俺の話を聞いていて不自然とか、

おかしいとか思わなかったのか?」

 その言葉に紫龍が真っ赤になった。

自分でも判ったのか、その赤を隠すために慌てて、枕に顔を埋める。

「 だって、信用していたからな」


       そう呟いた一言は、氷河に聞こえたんだか、聞こえないんだか……。


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