「俺が死んだら、もっと綺麗に泣いてくれる?」
 
それが多分、最初の言葉。



目覚めた時にはもう太陽はくっきりと真上だった。
きーんと耳を澄ましても、何も聞こえない。
忘れさられて、切り取られた写真のような日曜日の午後。

氷河は一人で夢から醒めた。
普段なら、いつまでもこんな風にしていると、
天使の羽の代わりに角を出すもう一人のベットの持ち主の姿も

今日はなぜか見当らない。
完璧においてけぼりを食らった白い雲。冷房も拗ねているのか、
ちょっと蒸し暑かった。もう一度、寝直すのもかったるく、

半分死んでいる頭を引きずりながら、食料と微笑みを求めて、
氷河は一人で階段を降りていく。これが実は彼の日常だった。

「あっ、おそようさん。よく眠れた?」

扉を開けるとまちかねていたように、深い低い声が氷河を包んだ。
モノトーンの中の一輪の鮮やかなモノトーン。
違和感なく存在する紫龍が、改めて不思議に映った。

「ごはん、食べる?」
「コーヒーでいい」と、いう台詞は予想範囲であったのだろう。
カフェオレはすぐ出てきた。
「・・・・・・・・」

「すきっ腹にコーヒーはよくないだろう。だからね」 

だったら、聞くなとも思ったが、出されたものを氷河は大人しくすすった。
紫龍はそんな 氷河の様子をこにこと、おかーさんみたいに、
嬉しそうに見つめている。何か勝手が掴めない。

二人きりになったのは、当然初めてではないが、
静かすぎて間がもてない。
「みんなは?」と、どうでもいいことが口に出る。

「星矢と瞬はお嬢さんの御供で、臨海公園までお弁当を持って出掛けたよ」
「それって、ピクニックって言わないか?」
そうとも言うな、と紫龍は答えた。

ちなみに、行方知れずの一輝は会話の対象から除外されている。
「そうか、」思わず声が出た。
「もしかして今日は休日なのか」

「もしかしなくとも、休日だよ、氷河」くすくすと、紫龍が答えた。
「知らなかったのか?」
忘れていたという方が、表現的には似付かわしい。

氷河はずすっとカフェオレをすする。
日常に忙殺されて美しき休日の存在を忘れるなんて、不覚もいい所だった。
もう一度、紫龍が音をたてて笑う。

微笑みはいつもと同じく優しいのに、なぜか別人のように見える。
口調に揶揄する感じがあるせいでもない。
けれど、それが何であるかは。見つめても判らない。

「何だ?」
「いや、・・・・・映画でも観にいくか?」デートのお誘いだったのだが。
「いやだ」音節をはっきりと発音される。

普段の優しい紫龍からは考えられない姿である。
最も、曲がりなりにも恋人どうしと世間に目される位置にいるのだから、
他の連中とは違った意味での、
それなりの遠慮の垣根や境界線を侵す位置にはいる。

ので、否定は驚くべきではないが、
紫龍はどちらかというと、映画が嫌いではなかった。
「氷河、前から気になってたんだけど。お前、映画館で何をしてるんだ?」

「何って・・・」今更という感じで、氷河は答えた。
「おまえの顔を見てるんだ」
(正確には、涙だけど)

最もこの発言は紫龍にとって不本意だったらしく、
軽く氷河をにらみつけた。
「・・・・・映画館って、映画を見る所じゃないのか?」

「映画よりお前の方がおもしろい」
と、製作者に失礼なことをきっぱり断言する。
「もったいないなあ、せっかくの休日なのになあ」

そうは云っても、平日の方が空いてるからと、
暇があれば強引に紫龍を映画館に引っ張り込み、
挙げ句の果てにお嬢さんに、

「これから紫龍と出掛けるから、もめごと起こすなよ」と、
厳命していくのは他ならぬ氷河であった。

「全く、」ため息が出る。
「俺の泣き顔なんて見て、どこがおもしろい理由なんだ?」
「綺麗だからな」と、いつもの口調で言われると、流石に頭が痛くなる。

「普通は泣いてたらそれを止める努力をしないか?」
「紫龍だって、泣く映画を見るの嫌いじゃないだろう」
「・・・まあね、」それは実の本当のことなので、否定はしない。

「普段、あんまり泣かないでいると、涙の出し方を忘れそうになるからな」
「だから、パブロフの犬だよ」一拍、間を於いてから氷河は言った。
「それだけだ」

紫龍には何のことだか、さっぱり判らなかった。


 ウ・ソ・ツ・キ。


けれど、乾いた顔でそう言っても、きょとんとするのも知っていた。
その無邪気な表情を改めて見つめて気が付いた。
紫龍のヘン。

「・・・・お前、唇が綺麗だな」
なぜ今まで判らなかったのだろうと、今度は自然とそこに目が吸い寄せられる。
不自然なくらい、際立った赤に染まっている。

紫龍に相応しくない真っ赤なルージュ。
「お前、人の話を聞けよ」と、言っても無駄なので、紫龍は投げ遣りの答える。
「財団の新製品だからって、お嬢さんに付けられた」

「落とせばいいじゃん」
(もったいないけど、)
 その言葉に何度目かの溜め息。

最も、氷河は紫龍の吐くちょっと冷たい気分な吐息も好きだけど。 
「だから、新製品だって言っただろ。
付けたら12時間は何しても落ちない、画期的なリップだと云っていた」

「その実験台か?」綺麗だからいいけど。
「そうじゃなくて・・・。それじゃ、恥ずかしいから外に出れないでしょうと」
「・・・・・」

「だから、帰ってくるまでにおやつにプリンを作っておいてねって」
しばし呆然としてから、氷河はふっとため息をつく。
「・・・、なんつー暴君な」

 こういうのの、下にいなければならない、我が身が口惜しかった。
「人のことは言えんと思うが・・・」

ちろりと毒の含まれた目で見られるても、
氷河には何のことだかさっぱり判らない。

「だって、俺のは愛だぞ」

それこそ、湯でタコのように真っ赤になる紫龍。
そして、氷河は代わりに一つの提案を思いつく。
(だから、泣かせたくなるんだよな。休日だし)

「なあ、二人きりで、外に出なくてもできるレクレーションって知ってるか?」
「えっ?」
「例えば、こんな風に・・・」

云いかけて、薄く開いた唇に、キス。

「氷河っ」
その震える唇に、舌を滑りこませた。
紫龍がぎゅっと息を呑んだのが、判る。

氷河はそのまま紫龍を抱きしめて、耳元で囁いた。
「愛している・・・」
 ずんと心に響いたのだけど、けれど、流されちゃいけない時もある。

「俺、ちょっと、プリンを作んなくちゃいけないから」
「プリンより俺の方が上手いぞ」
「それが真剣な顔をして、人をくどく台詞か」

おまけに字が違っている。
だが、氷河もプリンなどに大事な休日を邪魔される気はなかった。

奪われたのは、無防備だった赤い唇。
凝固された黒い宝石を見ながら、
手ぐさりで、着衣を落としていく。

外しにくいボタンが、見えない分だけ、いつもの倍かかる。
途中で紫龍のうっすらと染まり始めた肌で道草を食うので、
なおさらだった。

 とくとくと、波打つ心臓の様子を手の平でゆっくりと感じていった。
「お前、こんな所で、うんんっ」
腰の戒めを解くと、ズボンが重力に引かれていった。

 何を考えているんだ、この男はっ。

するりと解けたサッシュの紐の反動に、
紫龍は氷河のもとから離れていった。

「いやだ、と云っているだろうが」
「お代官様たらご無体をってか」
「俺は本当にプリンを作んなくちゃいけないんだから」

息をはずませながら、紫龍はきちんと主張した。
(最も、そーゆーのは半裸で言っても、説得力がないと思うが)
氷河には、はっきり云って自覚が足りなかった。

まあ、それでもリクエストは聞いてやろうと思う。
「なあ、紫龍。プリンが大事なのか、それともここでやるのが、イヤなのか?」
 
 正解は両方いやだったんだけどね。

生真面目だから、どちらかを考えてしまって、一瞬、スキが出来た。
それを見逃すほど氷河はおめでたくなかった。
手の平がまだどきどきを覚えていた。

するりと滑らせた、指がキュッと音をたてる。
「あんっっ」
 自分の中の波に耐えきれない紫龍が、ぎゅっと目をつぶった。

その姿がいじらしい。閉じられた瞳とうらはらに、
薄く開いた唇の色が変化していった。
 切れた唇から、したたり落ちた血の色みたいに。

赤から、もっと紅の色に。その紅い唇から息が漏れた。

苦しい喘ぎ声。

それが紅い、色に染まって氷河を誘った。
甘い、密ごとを秘めた吐息。
 
口付けを交わして。

自然の、生まれたままの姿に。
そして、唇だけが人口色だった。触れるのはそっと。
けれど丹念に氷河は紫龍の唇をむさぼった。

うっすらと、多分、血の色がつく―――。    

肉体から零れ出る紅い涙。体を掻けめぐる哀しみの色。

「んくっ、痛いっ」
「そりゃあ、痛いことをしてるんだから、痛いに決まっている」
紫龍の短い悲鳴に彼のなかの指をさらに動めかしながら、
氷河は答えた。

「つうっ、お前なぁ、あんっ」
 ゆっくりと、ゆっくりと仮面を付けるように、
紫龍の表情が潤んだものになる。

 泣きそうになる。

繰り返される息がまるで涙みたいに。
「ちょっと、本当に止め・・・」
「言歯と行動が一致していないぞ、お前」

拒絶の言葉と裏腹に紫龍は氷河にしがみついてくる。
「・・お前だって、んぅ、そうだろうが」
 一瞬、動きが止まってしまったのは、真実を当てられたからではない。

 紫龍は何も知らない。

けれど形には成っていなくても、心の底で、多分知っている。
(まあ、伊達に体を重ねてるわけではないという事で・・・)
(でも、やっぱり此処でしよう)

本当は立ってやるのは紫龍が大変そうだったから、
ちゃんと、押し倒してあげようと思ったんだけど・・・・・。
気分が悪いからすぐしようと思う。

壁によたっていた紫龍を裏返しにし、後から抱き寄せる。
「お前っ、こんな所で・・・」

「それはもう聞いた」

「こんなっ、うん…格好でっ」

「どうしようと、することは一緒だ」

「ちょっと、…明るいっ」

氷河はその紫龍の願いに答えて、目蓋をその両の手で閉じてやった。
「これで、いいだろう」
「んっ、──ばかやろうっ」

てのも、平仮名だと睦ごとにしか聞こえないな、と、氷河は思う。
氷河は紫龍の柔らかいそこを深く抉った。
悲鳴の瞬間、ぽろぽろ未だ慣れない痛みか、涙腺の堤防が決壊する。

いつもは、その泣き顔を見るのが好きなんだけど。
今日はこぼれる雫が冷たくて気持ちいい。

「ひょっ・・が、おっ、願い、ああん、やめ・・・・」

 何を願っているというのだろう、紫龍は。
本当は何も望んでいないくせに。

「ああっ、―――あんっ」             

きゅっと、固い白い壁に爪を立て、行方を無くした唇をそこに当てる。
まるで、それが救けてくれる全てのように・・・・・・。
 



涙は綺麗。こぼれる。

真っすぐ落ちる。心の結晶。ダイヤモンド。

 知っている。

静かに屍を見つめていた、

抱き留めた亡骸を 

ただ抱きしめて 頬を寄せて、血にまみれる。

一滴もダイヤモンドを零さない。




泣くはいい。

本当はいい。

泣くは真実をみせてくれる。

心を裸にして、湖の結界をざんぶと破る。

あふれる、あふれる、本当の姿。

削いで、抜けていく虚飾の皮。

ぐしゃぐしゃぐしゃに、崩れていく、崩れていく、

崩れていく、自分が無くなる。溶ける。

浄化。

真夜中の涙は、闇の中で光から本当。

闇の中の涙は、ただ拭えないで、堕ちるから真実。

そして、再生。

体が痛くても、心が痛くても、

本当は紫龍は泣くことを覚えなくてはいけない。
                       


 真っ赤な夕日が居間一杯に差し込む頃、どたどたと日常が帰ってくる。
「あれ、紫龍は?」
ただ今の挨拶もなしに、開口一番そう告げられる。

「部屋でちょっと伏せっている」
と、読んでいるハード・カバーから目を離さずに言う。
「夕飯の支度、頼むなって」

「そんなに悪いの?」声を不安に染めた瞬に、
「寝てれば治ると言っていたぞ」
普段、紫龍の小さなかすり傷でも、大騒ぎする人の台詞には思えない。

2人はちょっとヘンな顔をしたが、
それきり氷河が何も言わないので、台所へ消え去ることにした。
どんな時にも食料を取るというのは、
若い彼らに託された最重要課題であった。
 
そうして、ソファで本を読み続ける氷河をしばらく見ていたお嬢さんは、
唐突に、けれど小さな声で云う。
「氷河。口紅ついてるよ」

「えっ?」
反射的に口を拭ってしまった氷河を誰が責められるだろう。
お嬢さんは云った。

「モロゾフで我慢してあげるから、プリンお願いね」
これで逆らえたなら、今頃とっくにこの家を出れているだろう。
そんな氷河の表情を読んだように、

「ああ、それからね、」と、微笑む。
「うちの新製品は色落ちしないのが特徴だからね」
(・・・紫龍を連れて離反したそうが、よさそうだな)

「氷河、今の状態でそれをやったら誘拐だってば」
と、女神さま。
深い深い溜め息と共に、言葉を続ける。

「どんな我儘者だって、氷河には叶わないわよ。
何だかんだ言って、紫龍を一人じめにしてるじゃない」
だから、ここにプリンがないんじゃないのと、女神は氷河を睨んだ。

「それにたまには優しくしておかないと、逃げられちゃうわよ。
釣った魚だって餌は欲しいんだから」

「―――優しいよ」と、滅多に見せぬ優しい微笑み。 
凍える声で氷河は言った。
「だって、あいつの微笑みはそれでも皆のものにしてるだろ」

 優しく、月に冴えるように、包み込むように・・・・・。

 

だから、ねだるのは一つ。

あなたの心の奥底に沈む、
                 一番、綺麗な涙。



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