「ちょっと酔いを醒ましていくか?」
あまりに陳腐なために照れ隠しにも似たサインに紫龍は笑みを浮かべた。
「大丈夫です、そんなに飲んでいませんし……」
笑顔でかわしたというより、本当に遠慮したようだった。その証拠に足元がふらついている。
「……本当に大丈夫か?」
「大丈夫です」と、良い子の返事の前に紫龍はよろけてシュラの腕の中に倒れ込む。
慌てて紫龍が起き上がる前に、シュラはその唇を奪った。
長くも短くもない、口付けの後、紫龍はやっと意味が分かったようだった。
「どうする?帰るか?それとも……」
シュラの真剣な表情に紫龍は呼吸を止める。
戸惑いが彩る表情が何かを告げようとした時、耳障りな電子音が鳴り響いた。
「……はい?」
シュラには相手が判っている。もう3回目だ。
「誰からだ」
そして、紫龍もいつもと同じセリフだった。
「出る前に切れちゃったから。……でも、帰ります。胸騒ぎがしますから」
「ああ、けーれ、けーれ」
此処まで築き上げてきた微妙な関係を急くようなことはしない。
彼が恋人とに求められているのは包容力を持った大人の男は、
ごめんなさいと、紫龍が自分からしてくれるお休みの口付けだけで我慢しなくてはならないのだ。
もちろん、男の限界はそこまでだった。
「お前だろ?」
「何のコトよ?」
「電話だ、電話。魑魅魍魎が這い出る屋敷からやっとの思いで連れ出しているっていうのに、
紫龍とイイ所になると必ず無言のイタ電が入って、そこから先は次回のお楽しみになるだんなあ、
もう3回も。俺の溜まったモノどうしてくれるんだ」
女神が黄金聖闘士の暴言を許しているのは、彼が近しい者の対の相手だからというよりは、
彼の不遜な態度の原因に心当たりがあるからなのだが、
沙織はシュラの言い分には首を振らざるえなかった。
「いくらあたしだって、ソコまで暇じゃないわよ。あんたの部屋に盗聴器と隠しカメラは仕込んだけど」
「えっ?」と、男が真意を正す前に少女は、
「無意識じゃないの」と、答えた上げた。
「えっ?」
「初めての時、痛かったから、拒んでいるんじゃないの?」
「そんなヘマはしない」と、断言できる男はあの時の記憶をすぐにでも反芻できた。
「初めてなのか?」何て聞く必要もなかった。
口付けだけで酔いしれる、この身体は足跡も付いてない雪野原だ。
シュラが踏みつけても汚しても、それが最初の烙印になる。
だからこそ、乱暴に手折ってしまいたくなったし、そうしても紫龍は黙って受け入れると確信していたが、
男は紳士だった。タオルケットの代わりにずっと抱いていてやる。
自分の欲望を押しつける必要はない。ただそれだけで、布越しの他人の熱の方が気になってくる。
「……シュラ?」
返事の代わりに体中のあちこちに指を滑らしていく。火照った身体に冷たい指が心地よいのか、
うわごとのように名前が繰り返される。
次に何が起こるから判らないから、シュラの動きに追いつめられるしかない。
それでも吐息が甘くなる時、確かに紫龍は男の一部になった。男は紫龍のモノだった。
「好きです」と、確かに囁いてくれた。
「そりゃあ、感傷に浸りたい気持ちも分からなくはないけど……、
たった一度の既成事実で簡単に手に入ってしまうモノなんて、すぐに飽きるだけじゃないの?」
と、女神の意見は手厳しい。
「初めての時って、ワケ判らない内に流されたり、
……紫龍にとって、シュラって命の恩人……ちょっとニュアンスが違うけど、
ソレに近いモノがあるから、拒めなかったりするじゃない。あの人なら」
わざわざ指摘されなくても自分にチャンスがあるとしたら、その一点だけだと理解していた。
だが、一緒に眠ったあの夜を一度だけにしたくはなかったのは、男だけではないはずだった。
そうじゃなかったら、紫龍のことだ。あれから徹底的に自分との間に距離を置くだろう。
「でも、初めてのHじゃソレがどーゆう意味になるかやってみないと判らないじゃない。
ソレがあの人の誤算かもね」
「……誤算って?」
「つまり、温もりだけが欲しいのか、それとも……」
「何だ?」
「それは自分で確かめるといいわ。その為の恋人と違うの?」
「アテナは────」シュラは敬意を込めて
その名を呼んだ。
「私たちのことに反対はしないのですか?」
「どうして?」少女は無邪気に微笑んだ。
「そんなコトする必要ないもの。だって、紫龍は……」
「沙織さんの所に行ったんですって?」
珍しく自分の方から訪れた紫龍の開口一番がそれである。
「聖闘士がアテナのご機嫌を伺うのは、別に可笑しいコトじゃないだろ」
「……そうですけど」と、答えた紫龍は電話が鳴り出す前の表情になる……。
「なあ、もし女神が俺達に異議を唱えたら止めるのか、俺達……」
「それは……」
電話の音が聞こえる前に唇を奪う。自分の腕の中にすっぽり収まる。
闘いの最中は意識しなかったが、こうして形を確かめてみると、まだ彼は小さな子供だった。
「……俺とこうするのはイヤなのか?」
「でも、俺はいつか貴方を殺すかも知れない……」
「アテナのために?」
「……自分の為です、きっと」
正しく云うのなら女神を守るというささやかな自分のプライドの為だ。
「なら、いいよ。ただし二度も簡単には殺されてやらないが」
「────でも、二度と一人になりたくない
んです」
紫龍の瞳から涙が溢れてくる。シュラはその雫をしたで掬った。苦い味だった。
「────うん、いいよ」
約束は簡単だった。単にアテナの聖闘士が、女神を守れないということだ。
女神への永遠の忠誠の証として、聖剣を授かった男がその一切の栄光と矜持を捨て、
恋を選ぶということだった。その時が来たら。もしかしたら、女神を一度でも裏切った罰なのだろうか。
イヤ、これが紫龍を手に入れると云うことだ。彼そのものを抱きしめてしまえるという代償だ。
けれども、
「ごめんなさい」と、涙を流す子供が知らないことが一つだけ在る。
「いいのよ」と、無邪気に少女は笑っていた。
「だって、紫龍は私を……正確には女神だけど裏切らないし。
それに私は恋人達の生木を裂くようなマネはさせないから、安心しなさい。
でも、このことは紫龍には云わない方がいいわよ」
「なぜ?」
「知らない方がもっと貴方の可愛い恋人で居てくれるから」
もしかしなくても、一番のライバルは彼の何より敬愛する師匠でもなく、
いつでも懐いてくる弟ではなく、目つきのワルイ金髪、態度のでかい眉間にキズ、
甘い表情をしている腹黒と、彼のガードの高い仲間でもなく……
あの愛らしい女神かも知れなかった。
初めから判っていることだけどね。
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