どうして、物書きになったのかとよく云われる。

   なるほど、どちらかというと俺のしてきた事は体力勝負の肉弾戦
   だったし、おまけに人生の半分以上を外国で過ごしてきた俺に
   とって日本語というのは、極めてやっかいな言語である。

   美しい言葉であるとは思うが、それと使いこなせるというのは又、
   別問題である。瞬なぞは俺の書いたものを読んで、
   「痛いよね」と、云った。

   「自分の知っている少ない単語を駆使しているからかな、
    ひどく暴力的っていうか・・・。
    その割には少女趣味って気もするけど」
   
    ほっといてくれ。
    
    もっともこの瞬の感想は、世間一般やお偉い文壇の先生の
    一致した見解で、俺もその通りだと思う。
   
    俺の書くのっていつもいつも同じ黒髪のヒロインの、
    繰り返し繰り返される、恋愛話だからな。
    大概ハッピーエンドのマンネリズムだし。
 
    そんなんでも俺が何とか物書きとして食い繋いでいけるのは、
    よく判らんが、そういうのを望んでいるお嬢さん方が多い
    おかげであろう。
    
    ピンクの便箋に涙の後が滲んでいる手紙なんぞ可愛いほうで、
    いきなり『学校もおもしろくないし、せっかく出来たBFも親が
    交際を反対したので、来世で約束をして・・・』

    世の中、俺が思っている以上に病んでいるようだった。
    ちなみに日に二、三通くるこの手の手紙は見なかったことにして、
    俺は段ボールに封印してしまう。

    (で、あらかた集まったら大焚火大会だ)
    気持ちは判らんでもないが、せいぜい俺に出来るのは、
    怨念のつまった言葉で芋を焼いて、食うぐらいである。

    そして俺は又、ワープロに向かう。こういっては何だが、
    俺は別に物書きなんかに成りたかったわけではない。

    確かに宮仕いに完璧に向かない俺には似合っている
    職業ではあるが、女の子を口説くと記者に追いまわせられるは、
    締切はつらいは寝れないわ、寿司屋に行ってもネタはないわ、
    中でも一番大変なのが、ワープロがどうにかなった時である。
 
    物書きとは云っても、俺の場合ワープロとにらめっこしないと
    話がかけない人なので、だから字打ちといったほうが
    正解かもしれない。

    とにかく俺の少ないボギャブラリーをカバーしてくれ、
    且つ漢字に送り仮名を付けてくれるこの言葉の万能玉手箱が
    なかったら、俺の原稿は一ページも進まない。

    万が一、うっかり誰かがコンセントを引き抜いたりしたら、元ネタ
    が頭の中にしかないので、又始めから打ち直しということになる。
    (一回あった)停電も恐い。(これも一回あった)

    とにかく大変である。じゃあ、なぜと聞かれると、
    俺は自信を持って答えることにしている。
    俺はただワープロが打ちたかったのである。

    あいつが俺の前からいなくなって、
    きちんとまるで今日を予期していたように、
    整頓されていた部屋があった。
    
    その真ん中に忘れ去られたようにワープロが一台。
    月灯りの陰影のなか、黒い画面に浮かぶ白い字。
    まるですぐにでも帰ってくるような、
    ちょっと煙草でも買いにいくような、そんな感じで。
    
    気が付くと俺は夢中でキーボードを叩いていた。
    そうやってればあいつがひょっこり何事もなく帰ってくるような
    気がして、俺は夢中で叩いていた。

    どうしていいのか判らなかった。
    ただ、俺は無茶苦茶にキーボードを叩いていた。
    自分の言葉に表せない感情を形にしたかったかもしれないが、
    当時の俺にそんな高級テクニックがあるわけもなく、

    ただ意味のない言葉の羅列で、そして、書くたびにこれでもない、
    ああでもないと繰り返しているうちに、現在の俺があったりする。
    そういうもんである。
 
    考えてみればあいつは小説に似てるかもしれなかった。
    知的で優雅で、洗練されていて静かで複雑、おまけに美人。
    少しそっけない所。何も云わないが、叱咤も激励もしないで
    微笑んで俺を導いてくれる。頭の下に敷けば枕の代わりになる。
 
    いつもあいつに触れるたびに、新しい本を開いた時のかすかな
    高揚と、少しインクの香りを思い出す。読むたびに新しい迷宮に迷い
    こむようで。

    それでいて、何度も繰り返すお気にいりの本のそこにあるべき位置
    に存在する、安堵する文章のよう。
    そして、終わってしまうといつも切ない。

    ワープロにむかって徒然とキーボードを叩く。
    大好きな、あなたを埋める。埋める。埋め尽くす。
    綴る。描く。削る。作る。生まれる。生きる。私の中。

    私の、私の文章よ。
        (私の)削ぎ落とした、
                 肉と血で作る、
                           一雫、上等な浪漫。

    それは陶酔に似て、口付けに似ている―――。   


    ピアニストが恋人を想って優しいメロディを作るように、
   俺はかたかたと俺の気持ちを体系的、統計的に一つにしようとする。
   忘れていく感情を、思い出せない記憶を、消えていく想いを、
   かたかたと形にしていく。
 
   うまくいく場合もある。駄目な時はワープロがしゃかるだけである。
   まあ、そんな理由だが、大きな月のした、大きな木のうえで、
   真剣にワープロに向かいあっている時、
    
   風に揺れたカーテンにふと振り返る時はいつも、
   あいつが側にいるようで。そうして、書いている時、
   俺はいつもお前と一緒である。



   「ひどいな」耳元で突如、聞こえた声に我に返る。
   「勝手に人を殺すんじゃない」
   肩に顔を乗せて、頬を寄せて耳元で紫龍がささやく。
   
   ドアップなんてなれっこなだし、キスなんて何度もした。
   それこそ寝起きのみっともない表情とか、
   涙とか見たことのない顔なんてないはずなのに、
   どうしてこいつの前では時々、無防備な初恋の少女なんだろう。

   「おいっ」そんなドキドキを気付かれないように、
   俺は奇しく断腸の思いで理性を降り絞る。
   「お前な、俺は仕事中なんだぞ」

   「でも、おかげで目が醒めただろ」
   そういうセリフを思わずキスしたくなるような笑顔で云うんじゃない。
   あっ、本当にしたくなってしまった。

   本当にしてしまうぞ。あっ、本当に触れてしまった。
   まるで、冷たいガラスごしの、一瞬の接吻。もう一度触れようと、
   さらに先に進もうとした唇はうまく外されてしまった。
   
   「仕事中だろが」
   「いや、そうなんだけど・・・」
   服にかかる手を避けながら紫龍が云う。

   「さっき板垣さんから電話があったぞ」
   俺はまめんもくにワープロに向かった。
   おっと、急いでいたので変換しそこねちゃったぜ。

   「で、締め切りいつなんだ?」
   俺はなるべく何でもないように答えた。
   「・・・、昨日」

   「で、後はどれくらいだ?」 
   「・・10枚位」
   「サバよんで20ちょいだな」

   付き合いが長いとこういう所がイヤになる。
   切れるかなと思ったけれど、慣れっ子になっていたのか、
   紫龍は大きなため息をついただけだった。
  
   「・・下書きは出来てるのか?」
   「一応。後は打ちながら手直しするだけ」
   「本当は?」
   「全然」
 
   今度こそ紫龍は深い深い息を洩らして、俺を見つめた。
   「じゃあ、俺はワープロを打って上げるから、お前は原稿してなさい」
   「うん」と、俺は素直に頷いた。

   自慢じゃないが俺はワープロを打つのは好きだがとてつもなく遅い。
   なんたって指一本の世界だからな。
   情けないが仕方がない話である。
   
   この気持ちが判るのは木の葉の落ちるのさえ、
   足音に聞こえる、
   思わず笑う他何も出来ずへらへらするしか出来ない、
   締切の恐ろしさを知っている者だけである。
  
   俺の代わりにワープロを
   かたかた鳴らし始めた紫龍が、不意にこちらを振り向く。
   些、怒ってるかもしれない表情。
   
   「ぼけってしてないで、続きを書きなさい」
   「はーい」
   何で判ったんだろ。思わず背中にすりよりたくなったのを。

   仕方なく俺はノートと鉛筆をひろげて、もう一度、紫龍の背中を見た。
   何か、こーゆーのを何処かで見たことがあると思った。
   「ああ、そうだ。こーゆーシツエーションて夏休みに宿題が終わらない
   で泣きつくまる子ちゃんに似てないか?」

   我ながらなんつー情けない比喩。


   遺書というとあいつは泣いて怒るかもしれない。
   だが、音がゆっくりと消えていく世界で、あいつのデスプレィに
   映っていたのは、紛れもなくこの世への告別だった。

   と、云っても氷河さん愛しているとか、お前に出会えて良かったとか、
   そーゆー事は一切、書いてなく。
   
   例えば、庭の隅に咲いた小さな花。
   如雨露から生まれた七色のプリズム。雨。
   美味しかった茶碗蒸しのこと。空に消えていった風船。
 
   控えめで淡々とその姿をそのままに写した文章だった。
   在りきたりのことが、在りきたりのようでそれでいて、
   砂地に清水が染みいるような言葉。

    一つ一つが宝物のように。誰も知らないあいつの聖域。
    たった一人で眠れない夜。
    多分、あいつはこうやって涙を抱えたんだなと思った。

    そう思ったら何だか抱き締めずにはいられなかった。

    俺がワープロを取り上げてしまったから、
    あいつは今は文章を書かない。
    代わりに俺に少しずつ話すようになった。

    小さな子供のように頬を膨らませ、高揚し、
    たまに瞳を伏せて丁寧に言葉を紡ぐ。
    俺は頷いて、たまにネタにしようなんて思って、
    それが俺たちの会話だったりする。
 
    おっして、
    それは言葉は違ってもそれはいつも同じ意味に聞こえる。
    心の中に響いている。


     愛しているよと、ただ一言に。

          だから、俺はワープロに向かう。
           あいつの代わりに想いを刻む 。

                 
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