「―――此処まで来れば追っ手は来ないぞ」  
「大莫迦」と、云いながらかすった手の甲に舌を這わしているのだから、
紫龍も人のことには云えない。第一、二人はもう立派な共犯者である。

 此処は古い温室だった。
古いといっても設備だけのことで、紫龍が丹念に育ててきた薔薇が
久しぶりの主人の帰還を祝福するかのように、一斉に芳香を漂わせている。
 それが血の匂いを消してくれる。

「そう云えば、一度だけ、血の匂いの残る所で口付けをしたことがあるな」
 紫龍もくすりと笑った。
「血染めの堕天使が、俺のことを迎えにきたと思ったよ」
「まあな」と、氷河が自分の姿を顧みる。

 たしかに白い聖衣に敵の返り血がべっとり付き、
あまつさえ金の髪にも赤いものがこびりついている状態は
紫龍の云うとおりである。

「だが、お前に云われる筋合いはない、
全くいつにも増してひどい有様だったもんな」
「―――そうか?」             

 この期に及んでそう云い切る紫龍はいつものことながら、
自覚なぞないのだろう。自分が身食い龍であるということに。
 その湿った土の上に横たえて、
傷があった所を思い出すように口付けをしていく。

頸動脈すれすれの所がばっくりと裂けていた。
それから、右の太股の所に鮮血が滲んでいる。それから、
きっと見えない所も無数の傷で覆われていのだろう。

 ぺろりとその一番大きくて、血の匂いがきついそこに唇を押し当てる。
ぺろり、ぺろりと、何度もその血を掬う。
「……氷河」と、紫龍が小さく震えた。

「ちょっと、こんな所で……」
「大丈夫、油薬はちゃんと持っているから」「ああっ」
 冷たいとろんとしたものが紫龍の秘部に押し分けられる。

その冷たさに一瞬、正気になる理性だが、
だが、一緒に埋没された氷河の指がもう一度、紫龍の理性をかき乱す。

「やぁ、……」
 紫龍の腰が妖しくゆらめき、その隙間をぬうように二本目の指が挿入される。
「あひっ」唇が離れると同時に右足が氷河の肩に載せられる。
あの時と同じように。

「……氷河」その狭い穴を通って氷河が紫龍に近付いてくる。
不安定な姿勢がより一層、紫龍を食込んでいく。
悪夢がぱっくりと大きな穴を空けている寸前、
紫龍は欲望に達した氷河を垣間見る。

本懐を遂げたというより、苦しそうに、
まるで汚いものを紫龍に吐き出す罪に震える小さな生きものを。
紫龍はそっと抱き締める。
何よりも氷河を苦しめているのは自分だと知っているから。


 漸く花の匂いが落ち、さっぱりとして今に向かうと、
窓際のチェアで紫龍が本を読んでいた。いつもより少し真面目の、
凛凛しい顔がページをめくるたびに柔らかく無限になっていく。

 人にははんこのような優しい表情だと思われているが、
実際、二人きりの紫龍はもっと、もっと、柔らかくて、
ワープロの変換のように気ままだ。

その紫龍を氷河の他に見れるのが、本である。
昔はいつ死んでも悔いが残らないように、短篇しか読まなかったが、
この頃、時間の都合が出来たせいか長編にも挑戦している。

おかげで氷河との時間も随分、それに費やされている。
ほっとけば寝る間を惜しんでもだ。
その自分以外の物に熱中する様を見たくないのか、
それとも一人にしておくと空気に透けてしまいそうなのが恐いのか、
思わずキスをしてしまう。

「―――何読んでいるんだ?」        
 こうやって構ってほしい時(しかも何時でもだ)のみ、
体を傾けるのはまるで猫に似ていると紫龍は思う。

「『フランドルの呪画』」と云ったきりページを手繰る紫龍に氷河が、
「おもしろいのか、それ」
「おもしろいもそうだけど、読みかけのミステリーだから、
犯人が気になって……」

「ふーん」「だから、邪魔するなよ」
 そう云われて、大人しくしてる方が可笑しい。
第一、時間がないのはこちらも同じことであった。

本に夢中のおかげで簡単にズボンが緩む。Tシャツをたくし上げ、
そこからゆっくりとゆっくりと慎重に紫龍の胸に辿り着く。
やっとの思いで辿り着いた頂上を指の腹で丹念に征服していく。

「ばかっ」そのたった一声さえ甘く震える。
「だから、そのまま読んでいればいいだろう」と、独裁者は冷たく微笑んだ。
「お前のいやらしい声を聞きながら、その通りにしてやるから」

「そうゆう、本じゃ、ないって云っているだろうぅ、あんっ」
 たったこれだけのことなのに、
氷河の思うままになってしまう体が少し、恨めしい。

「さっきからお前、同じページだぞ」
「あんっ」と、手からハードカバーが零れ落ちる。
銀色の眼鏡を氷河は素早く外すとその唇に口付ける。

 赤い、あの日から血に濡れてしまった唇を貪る。すると溜まらないのか。
珍しい紫龍からの口付け。それを一頻り楽しんだ後、
綺麗に弧を描いた身体の赤いところに、ゆっくりと舌を移動していく。
紫龍の反応を楽しみながら。

「そうそう、素直なのが一番だぞ」と、
白いそれでいて少し上気した肌を拝もうした時だった。
「あに、やってんだよ」と、すっかり日に焼けた少年だった。

「―――お帰り」間の抜けた言葉であるが、
この不意打ちは流石に氷河も仰天で、
完璧にその表情に色をなくしてしまったが、
不機嫌をしょっている少年は自分の感情に精一杯であった。

「てめいが来ないから、外野、全部一人で守らせられたんだぞ。
えっ、何をしていたんだ」

「ちょっと、紫龍といいことを」とは、この大の紫龍贔屓には云えない。
あまりにも気の毒で。だが事実は時として何よりも残酷に出来ていて、
目ざといものだけが、不幸を背負いこむようになっている。

「何か、イカくせいぞ、この部屋」
「気のせいだろ」紫龍はともかく氷河は服を着ていたが幸いしたが、
しかし、そんなことでは弟の目は誤魔化されなかった。

取り敢えず、虫眼鏡片手に、ピアスかパンティでも探そうとしたが、
見付けたのは何時からあったのか、
テーブルの上に忘れ去られた眼鏡を取り上げる。

「紫龍の眼鏡、何でこんな所に出しっぱなしなんだ?」
 先刻まで使っていたとも云えず、そうだなと、だけ答える。
もちろん、そんな返事は無視し、星矢はそのグラスをなんとも成しに開いて、
今度はちょっと掛けてみる。

「だけど、これ度が入ってないな」
「ほとんど、伊達だからな」「何でだろ」
「本を読むため」

正確には本を読んでいるから邪魔をしないでくれという意思表示だが、
氷河は気にしたこともなかった。

 けれど、教えてやらない。あいつの情報、あいつの素顔の片鱗。
何一つとて、紫龍は自分の物なのだから。
その優越を更に満足させるように、星矢はぽつりと呟いた。

「俺、あいつのこと、何にも知らなかったんだな」
「……俺もだ」
 それは別に慰めではなく、氷河の本心だった。
そう、まだ時間が足りないのだ。



 やっとの思いで部屋に帰ると、ドアを開けた途端、
紫龍が氷河の唇に触れる。
シャツのボタンを外すと神話から抜け出たような、

青年の体躯が現われる。紫龍を狂わせ、
抱きしめられるこの世で、たった一つの黄金の肉体。
その心臓に口付けたのは情欲の合図ではなかった。

敬意を込めて。そのまま鼓動の音を聞く。
規則正しく同じリズムを刻む氷河の血の音。
温かい体液。知らなかっただけで、本当はずっと欲しかったもの。
いつまでもこうしていたがったが、それが許されないことも知っていた。

 紫龍は微笑むと、白いシャツをふうわりと掛けて、ネクタイを締めてあげる。
いい所を邪魔されてむっとする氷河を紫龍は優しく叱咤する。
「パーティに行くんだろう。早く準備しないと」
「パーティ?」記憶を探るとそんな単語が渦巻いていたが……。

「ボディガード。さっき廊下の掲示板に書いてあった」
 もう、恨めしそうに見ても駄目。
「先刻、野球だってさぼっちゃったんだから……、
それに女神を守るのは聖闘士の仕事だろ」

「そうだが」お前を残していけないという言葉を紫龍はキスでかき消す。
「取り敢えず、お仕事をしなくっちゃ。ほら。良く似合うぞ」
 もう一度、ブルーのタイを整えてやると、早口とノックの音が飛び込んでくる。

「ごめん、氷河。―――いい?あのさ、背広じゃなくて、
黒のタキシードにして欲しいの。エスコートもしてもらうことになりそうだから」
「―――ああ」               

 固まった表情が許に戻るのに、随分な時間を費やしてしまった。
紫龍も息を止めたままで、持っていたブラシを落としてしまう。
まさに今回は危機一髪であった。

紫龍は丁度、扉の影になっていたから見えないのはしょうがないとしても、
しかし、秘密を漏洩するのは彼女だと思っていたから、
その奇襲はあまりにあっけなさすぎた。

「……案外とばれないもんだな」自信さえ湧き出てきそうである。
「……そうだな」と、紫龍のなぜか切なく微笑んだ時、もう一度。
ノックの音がした。

今度はおなざりの誰何も問わずに、紫龍に微笑みかける。
「―――紫龍、いつまでも愚図愚図していると成仏出来なくなるわよ」
 紫龍は答えた。

「沙織さん、“成仏”って仏教用語じゃないんですか?」
「お生憎様。だって、お爺さまったら浄土真宗だもん」
 それには答えずにいつものように微笑んで、
二回だけ手を振ると紫龍は見えなくなってしまった。
どうしてだろう、涙は零れなかった。



 つつがなくパーティは終わり、
その帰りのリムジンの中で女神が思い出したように云う。
「随分、あっさりしているわね」
「魔法使いって、自分の正体がばれると魔法の国に帰るだろ。
それと一緒。ただの、かくれんぼだったからな」

「違うわ、まあ、あの人が薄情なのは判っていたからいいけど、
―――貴方の方よ。
あたしより大事な人があたしの所為で無くした割りには、
前と変わらないから」

「あいつ、死んだら、俺も狂うって……。
少女漫画じゃないんだからな」と、氷河が笑う。
「あいつが死んで様が、生きてようが、やることは1つだし、
―――忘れられないから。何も変わらない」

―――そのための秘密だった。誰も知らない紫龍を刻んでいった。
 ふうとお嬢さんが息を漏らした。

「あたし、昔、紫龍に同じようなことを聞いたことがあるの」
「同じこと?」
「うん、もしも、戦いで氷河が死んじゃったら困るから、
あたしを裏切ってもいいのよって。そしたら、いつものように微笑んで、

『氷河が死んでも、皆々、覚えているから大丈夫ですから、
お気遣い無用ですって』。失礼しちゃうわよね、
人が折角、気を使っているのに―――」

 それから先の言葉を無理遣り続けようとした少女に氷河は
紫龍が入れてくれたハンカチを差し出す。
「―――泣いてもいいぞ」
「あたしより、あんたの方がつらいじゃない。
これ以上、みっともないこと出来ないわよ」

 そういう沙織の肩を回してやる。紫龍に良くしてやったように。
「俺はいいんだ。だって、あいつ以外の前で泣くつもりはないから」
 それは嘘ではなかった。だが、本当でもなかった。




「―――どうかしたのか?」         
「いや」と、云っても体と魂を交流させた聖闘士が、ましてや紫龍だ。
夢の内容までは伝わってなくても、
表装の感情くらいは掴み取れるだろう。
だが、紫龍は何も云わずに冷たいタオルを絞ってくれただけであった。

「水でも飲むか?」
「いや、いい。―――側に居てくれ」何も付けていない、
裸のままの体は従順に氷河の腕のなかに収まった。
そのまま大きく息を整える。

 それが夢だとどうして云えるだろう。あれはただの夢じゃない。
定められた運命よりももっと切ない。ただの未来の思い出。
愛しいものが護れない。そして、これは罪なのだ。

 神を護る聖闘士の冠を抱きながら、
女神以外の者を愛した、ただの罰―――。        


   
そう、いつか、お前を殺しちゃうかもしれない。


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