「何だ?」

「あっ、済まない」窓辺にかかる大きな白い月の中。

呼吸さえ忘れて氷河を見詰めていた紫龍がその言葉に漸く身動ぐ。

「起こしたか?」

「お前はずっと起きていたみたいだがな」
 
寝起きとは信じられない位に、はっきりとした声であった。

「どうした?」

「何が?」

「……」

あまりにも無頓着過ぎる台詞に一瞬、言葉を失う。

こうして触れ合う関係になって、

紫龍が氷河を誰よりも慈しむよりも、

愛しているという自覚があるのに。

そこの所をまるで理解していない。

最もそこを体に覚えこませるのが、氷河の課題なのだが。

 すっかり冷えてしまった体にタオルケットを被せ、

「眠れないみたいだから」

「そんなことはない」と、直ぐ様に否定の言葉が返る。

「ちゃんと寝ていただろう。お前もそこは見たんだから」

「寝たというより、失神したんだろうが」

 誰のせいだ、誰の。と、軽く睨んだ瞳に、気付く素振りさえ見せず、

氷河は紫龍の目の縁の白い物を拭った。まだ冷たかった。

「……」

しばし、空中で佇むその指に先にため息を付いたのは紫龍の方だった。

「本当に何でもないよ」
 
じっ。
「本当だって。ただ夢を見ただけだって」

そして、ただ、にこにこと微笑むだけなので、氷河のなかに余計、疑念が沸き上がる。

「教えろ」ただの夢かそうでないかは、自分が判断する。

少なくても氷河にはその権利と義務があるはずである。

 すると紫龍は、「後悔すると思うが」と、涼しげな顔をする。 

じっ。言葉なぞ無くても雄弁に物語るその表情に誰がポーカーフェイスと名付けたか。

紫龍は一つ微笑みを洩らし、それからゆっくりと記憶を辿る。

「目が覚めるとそこは普通の平和な世界で、

闘いとか聖闘士とかそーゆーの関係なくて、普通の生活を営んでいるわけだ」

「ふむふむ」

「みんな兄弟で、お父さんとかお母さんとかは、

やっぱりいないけど、きちんとした“家”があるんだよ」

「お前が憧れるみたいな」

「一輝が一番上のお兄さんで、二番目が氷河で、

瞬がいて星矢がいて沙織さんがいて……。

皆、年相応に学校なんぞに行ったりして、泣いたり笑ったり、

喧嘩したり、そうやって毎日、毎日、当たり前に時間が流れていくんだよ。

何をしていたのか思い出せないが、

哀しいことも苦しいことも、皆、結晶になってしまうような、

そんな普通の日常が五人で営なまれている…」

「お前は?」その紫龍の遠い目を遮るように氷河。

「俺達、全員だったら六人だろうが」

「俺は女の子でお前たちのお手伝いさん」

そのあっさりした言葉に、氷河の眉が寄せられた。「何で?」

「中身がこのままだからじゃないのか?」

「このままって……?」氷河の顔が青ざめる。

「まさか、ゾ×サ×トなのか?」

「そういうんじゃなくてな……」

もちろん、そう云う前に氷河は一度、ぶっとばされているのだが。

「一人だけ設定が違うというか。どっちかというと設定が違うのはお前らの方か。

此処にいる俺が向こうの世界に行っているみたいな……。

些、違うか。とにかく俺は俺のままなんだよ。記憶があるって云うか。

お前らには俺が黒髪麗しい“史城桜”ってお手伝いさんにしか見えなくても、

俺はちゃんと“聖闘士”の俺なんだな、これが」

「……」

「むしろ逆かな。俺が俺に見えてくれないから、彼女になったみたいな。

そうやって日常に溶けこんで行くんだな」と、微笑った顔が胸に突きささる。

 どうしたら、いいのだろう。触れて、キスして、抱き締めて、

いつもだったら簡単に隙間を埋める作業が出来ずにいる。
 
多分、百年の孤独よりも、街中で振り向いて誰もいないよりも、淋しい独り。

誰もあの綺麗な名前を知らない。それだけでもう罪だというのに。

目の前の紫龍が夢の中より遠くに在った。

「ああ、でも氷河が思っているほど悲惨じゃないよ。

俺、適応能力あるし……。それにシュラがずっとずっと側にいてくれたから」
 
そして、紫龍は意地悪い顔をした。

「ほら、後悔しただろう」

「───うん」と、紫龍の多少、揶揄した感じに氷河はきっぱり頷いて紫龍を見た。

「後悔した」
単にそれがジェラシーとか、その類の感情であったなら、

今、紫龍の目の前にいることに、こんなに息苦しさを覚えないだろう。

だが、紫龍は平然に云った。

「でも、これは夢の話だぞ」

「お前だってその夢で泣いていたんだろうが」

「俺は夢で良かったと思っただけだ」
 
現実に戻って、隣に氷河の体温があって、何にも知らないで眠りこけていて、

でも、その無邪気な表情に安堵して。

「それに氷河は思い出してくれたから」紫龍の声が優しく氷河に降り注いだ。

「きちんと俺のコトを思い出して好きって云ってくれたから……」

「……」

「順番がちょっと違うけどな」
 
だから信じられる。束の間の未来。
 
別に生まれ変わってもこいつと一緒なんて、そこまでロマンテックじゃないけれど。

 少なくとも今は、今だけは自分のものだと。

「だから本当に夢で良かったと思うよ」

「……なあ、紫龍」と、戸惑いがちに氷河が云った。

「───していいか?」

その言葉に紫龍はぷうと口を膨らませる。

「聞かなくても、するじゃないか」

「そーなんだけどな」と、首筋に指を滑らせながら、氷河。

「今日は何かな……」
「……そーゆーのって何か気持ち悪いけど」

そう云いながら目を暝ってしまうのだから、自分も相当に人がいいと思う。

 だけど氷河とこうするのは、はっきり云って嫌いではない。

 滑る指が、唇が仄かな熱が、痛みとなって体を駆け巡る。

その瞬間だけは、この世界にきちんと生きている証になる。

 だから信じられる。目覚めても、現実に戻っても。

 夢がもう一度、叶う瞬間を。




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