そんなミラクル・ロマンスを信じていた理由ではなかったけれどもね………。           



「……そうですか」と、電話口で重苦しい声が響きわたった。

「とうとう知ってしまいましたか、紫龍」

 だが、めったに感情を表さぬムウの痛切に比べ、もう一方の電話口にいるシュラの声は

笑い声が聞こえないのが不思議なくらい軽やかだった。いっそ、陽気といってもいい。

「それがさあ、病院の廊下でばったり逢っちまってョ。紫龍は知らないもんだから、

子犬みたいにぱたぱた走って。いやあ、若い子の体力には叶わないよな。止める間もなくてさ。

あっという間に捕まえて、なのにやっと巡り会ったかけがえのない奴らの第一声が『誰?貴方』

と来たもんだよな。あいつ凍り付いてたよな。あれは結構、つらいだろうな」

 判ってはいたのだがなと、シュラは付け足す。

「それで………?」                 

「やっぱ、全然、駄目だわ、あいつら。紫龍の顔を見てもやっぱり何も思い出さないでやんの」

「彼らのことはどーでもいいんです。どーでも」 ……自らの奉じる女神を“どーでも”はないと思う。

今はまださばけた時代だから良いが、一昔前だったら聖域裁判ものである。

 とは云ってもその裁くべき女神がいないのだから、やはりどーでもなのだろう。

 そうシュラがつまらないことを考えていると、ムウの息切った声が飛び込んでくる。

「あの子は大丈夫ですか」

「まあな」なるべく平然とシュラは答えた。

「今はちょっと泣きつかれて眠っているけど……。うん、俺の膝の上。明日になれば元気なんじゃないか」

「なんじゃないかって……」と、微かに震えている声。

「何です、その無責任な言葉は?」

「無責任てな……」いい加減、電話を切りたくなったが、それをすると後が厄介である。

 それにしても、話せば話すほどムウのイメージが破壊されていくのは気のせいだろうか。

「………そんなの明日にならなきゃ、判らないだろうが。こいつの痛みなんだぞ、

女に振られたとか、朝、起きたら犬がぽっくり死んじゃったとか、似ているようで全然、違うんだぞ」

 例えるならば、目覚めればそこは誰も知らない砂漠の国。髪の色も目の色も見慣れない、

知らない言葉が行き交う町。ただ、暑さの中でうだる脳味噌と流れる汗だけが存在の証明。

 闇のなか、もがいてももがいても何処までも広がる漆黒の孤独。

「………優しく」ムウが焦れたように呟く。見守るだけがこんなにつらいとは、思ってもみなかった。

「ちゃんと、幼子を扱うように優しかったですか、シュラ?」

「してやったぞ。体が崩れていいように、ちゃんと抱えてやりながら、耳元でささやいて………。

あいつって以外と線、細いのな。結構、細くて柔らかいし。体の力が全部、抜け切りながらもさ、

あいつ始めは『それじゃあ、聖域の方々も大変でしょう』なーんて、云ってたんだけどさ、

『泣いてもいいぞ』って云った途端、ぽろぽろ泣きだしてやんの。可愛いよなあいつ。

零れた真珠の涙を舌で全部、掬ってやって……。『紫龍』って何度も名前を呼んでやって。

それから、あいつが眠るまで、髪を漉いてやって……。いやあ、自主規制するのも大変だったよ。

どうだ羨ましいだろ」と、シュラは威張った。

「最も、残酷な事実ほど優しさなんてバンドエイドの価値もないぞ。

むしろ傷口に塩を塗りこむようなもんだぜ。お前だってそれ位、知っているだろう」

「そう思うですが………どうしていいか、判らないのです」

 自分の養い親の死をその犯人に向けて糾弾した子供とは思えないくらいの小さな呟きだった。

「……貴方は結構、平気ですね」

「まあな」と、シュラは答えた。

「悪い空気が立ち籠めていたからな。死にぞこないがいる病室みたいに腐臭が立ち籠めてさ。

それがどういう意味であるか、気が付いた時には手遅れだったがな……」

 最も、あの時に、あの全てのことが始まったあの時に気が付いていたら……、

全ての時はもう少し、穏やかに流れていたと思う。いや、思うだけだと、シュラは自嘲する。

きっとそうなったとしても、誰かが同じ過ちを繰り返すのだろう。

「黄金聖闘士ともなると、完璧に聖域側だか。

沈没船から逃げ出すネズミみたいな真似はできんつぅーのもあったが」

「アイオロスの手前、そうすることも出来ないと……」

ちくんと刺を一つ差して、ムウはいつもの調子を戻す。

「ですが、私が云いたいのは“女神”のことです。アテナの記憶は元に戻ると思いますか、シュラ?」

「それこそ愚問なんじゃないか」と、冷蔵庫から取り出してあった缶ビールのタブを開ける。

「教皇が………まあ、本当は違ったけどよ。とにかくサガが認めた“女神”だぜ。降臨した瞬間、

普通の中学生に逆戻りしようが、気が狂おうが新しいのが現われないかぎり、あの娘が女神だぜ」

「……」

「正直じゃねえな、案外」ごくっとシュラは喉を鳴らした。

「お前だって本当は女神がいよーがいまいが、本当は全然、平気なんじゃないか」

「そうですね」と、ムウは答えた。

「私も女神なぞ信じてはおりません」自分を語るというのが、

こんなに骨が折れる作業だとは思いもしなかった。遣りにくい相手だが、

彼の協力を仰がないことにはこの迷宮は解かれることはないのである。

「けれど、あの子には“女神”必要なのです。正確には城戸沙織という少女と日本での生活の記憶が」

「……」
「ねえ、シュラ」と、ムウがため息をこぼす。

「記憶が無くなるってどういうことなのでしょう」

「さあな」シュラは答えた。

「忘れたいって思ったことはあっても、目、醒めたらちゃんと覚えていたからな。

最も酒をかっくらちゃえばその限りじゃないが……。まあ、忘れるって楽だぜ」

「それを見送る方はいつでも哀しく切ないものです。

私はあの子にそうゆう苦みを味わって欲しくなかった……」

「生きていればしょうがないだろう」男は煙草に火を付ける。

「お前がいくらそう思っていたって、一生涯、守れるわけじゃないんだから」

 そう云ってもそれとも違うこともシュラには判っていた。

 生き別れるより、死に別れの方がいい。まだ、希望が残されているから。

そう言い切れた奴はロマンチストであるとシュラは思う。

 死んでしまえばそれまでだが、だからこそ思い出だけが美しく残っている。

 それらは普段は脳のなかに沈澱しているが、ことある度に、それは不意に蘇る。

 それは例えば、夢の中であったり、古い本のなかに挟まれた栞代わりの写真だったり、

懐かしいあの人の手紙だったり。そして、零れる涙も又、真実なのである。

けれども、生き別れは違う。自分の記憶には残されているのに、

相手の記憶からには抹消されていたら。街角で偶然、息を止めて、その人を見つめても、

もうその人は赤の他人。思い出の中にあるあの人とは違うのである。
 
その時はもう思い出さえ、ぼろぼろに崩れ去るのである。

(それに加えてあいつの場合は、その『さよなら』をいう時間もなかったからな)

 バトルで死ぬよりも質が悪いかもしれない。

「ですが、私は例えあの子が忘れてくれって懇願しても、忘れてあげないんですけどね」と、

ムウは何度目かのため息を付く。

「どうしてあの子はそのことが判ってくれないんでしょう」

「……こうして見るとあの子だけが女神に捨てられたような感じがするがな」

 何が悪かったのか、もう誰にも判らない。ただ事実だけが存在した。


 とにかく、女神の智恵を受け継いだ少女はその記憶を心の奥底に埋め、

13才の普通の男の子になった。記憶を喪失することにより、自分の壊れていく精神を守るために。

かって彼女が夢を見たように。
 
そして、彼女に奉じる為に聖域に乗り越んできた4人のブロンズの闘士も又、

彼女を守るために記憶を変えた。たった一人を残して、残酷なお伽話を紡いだ。

「だが、こーゆー見方もあるだろうが。あいつには忘れられない記憶があったから、

あいつだけ残ったと……」

「どちらにしても、あの子はこの迷宮を解く鍵の一つです。

もう本当の女神を知っているのはあの子だけなのですから」

「こーゆー生き残りから、事故の手がかりをきくつぅーのが、解決のセオリーだしな。………そうだ」

シュラが不意に思い出したように云った。

「氷河って誰だ?」

「金髪の白鳥座の聖闘士ですよ。カミュの弟子の」

「で、どんな奴だ」

「さあ」この場合、氷河の性格が一言で語られないと、いうのもあったが、

ムウがそのすぐれた言語感覚を発揮する情報が少なすぎたという方が正しいだろう。

「私はあの子とのことしか良く判らないんですよ。それこそあの子のことは

体の隅の隅まで熟知しているのですが……」ムウは平然と云った。

「貴方、紫龍と初対面じゃないでしょう」

「………何だ、いきなり」              

「一目惚れなんかするタイプの子ではありませんから、紫龍は」

 自分ときたら、あっという間に恋の罠を仕掛けるくせね。

「ですが、貴方は違った。紫龍はどこかで貴方のことを待っていた。貴方に逢うのをね。

云うなれば貴方はあの子に選ばれたんです。それに貴方も待っていたんじゃありませんか?」
 だが、ムウの勘繰りはシュラの一言で一蹴される。

「………それがどうかしたのか?」         

「……」ムウはため息をついて、最後の願いを口にする。

「お願いですからあの子に手を出さないで下さい」

「?なんだいそりゃあ」

「あの子の力は他人がいて初めて発揮されるものです。云わば今の紫龍は翼がもげた鳥と同じ。

そんな時は誰でも温もりがほしくなるものです。そして、今のあの子には貴方だけなのです」

「……そうだな」

「私はこれ以上、あの子につらい選択を強いりたくない。それだけです」

「安心しなよ」シュラは云った。笑っているような声であった。

「まだ、手は出さないから。こいつが本当に俺を必要とするまではな」

 そして、シュラは泣き疲れて眠ってしまった紫龍の髪を優しく解き漉かす。

優しく、優しく。魔法をかけるように。

「あいつ、眠る間際に何て云ったと思う?『シュラがいるから、大丈夫』なんだと。

でも、大丈夫だったら、それこそ俺しかいらないと思わないか?」

「……」
「だから、今度はちゃんと教えてやるんだよ」

 安らかな寝息をたてているその唇の輪郭を辿りながら。シュラの唇に笑みが浮かぶ。

「汚れても、堕ちても転んでも、たった一つ掴める星があることをな。

そして、そうしなきゃ掴めない星のことをな」



「シュラがいるから、大丈夫ですよ」

                 その言葉の意味を今度こそ、本当におしえてあげる。





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