ある日の夕食前の出来事だった。
台所で忙しく働く桜ちゃんと、夕刊のページをめくりながら、ソファーに足をふてぶ
てしく投げ出してるおっつわんとその間に流れる空気を見ながら、それは本当に
何気なくでた言葉だった。
「ねえ、紫龍とおっさんてどういう関係なの?」言ったとたんケリが飛んできた。
「誰が、おっつわんだ、誰が?」
あたしはそのケリを冷静に避けながら言葉を続ける。
「言われてムキになる人のことに決まってるでしょうが」
「30前にむかっておっつわんってのはないだろうが。第一、お前、ことばが汚いぞ」
「ふん、10代前半から見れば、26なんて、おじんよおじん。それにあんたから口
が悪いなんて、オホホホホ、笑っちゃうわ」
「記憶喪失者が偉そうに、自分の年令をえばんじゃない」
「人の肉体的欠陥であげ足とるんじゃないわよ。そういうコト言うから、女にもて
ないのよ」
「もてないんじゃない、自制してるんだ。お前こそBFの一人でもいたらもっと楽だ
ったろうに」
「何ですって、もう一度いってみんさいよ。きー」と、レベルの低い争いをしている
と、台所からお玉が風を切って飛んできた。
お玉っていうのは、中身を掬うへりの部分が尖っているだけで、後は全体的に
まるみを帯びさせている。それが、ちゃんと壁に突きささるのだから、………どう
いう握力しているのだろう。ついでに言うなら、今台所にいる人物はうちで一番、
温和な実力者。
「子供相手に何してるんですか?シュラは」言葉尻は綺麗だが、ウムを言わせな
い迫力があった。おっつわんの動きがぴたりと止まる。
そのゴーゴンの視線が今度はあたしの前で止まった。にっこり。
「それから、お嬢さん、紫龍ってだーれ?」微笑まれてしまった。それもにっこり
だ。それはこれ以上、何か言うとごはんが抜かれるとか、お尻ペンペンとかそう
いうのに匹敵した。あたしは素直に言いなおした。
「桜ちゃんとシュラって本当はどういう関係なの?」
「恋人」
次の瞬間、おっつわんの目の前に文化包丁が飛んできた。
「誰と、誰が恋人ですって?」
そういいながら目がピクンと釣り上がっている。桜ちゃんはこの頃とみに切れや
すい。言わなきゃ良かった。あたしは後悔した。これで、またごはんが遅くなる。
と、乱闘もどきの痴話ゲンカをする二人を尻目にあたしは溜息をついた。実はこ
の家で一番理性的なのは何を隠そうあたしなのだ。
やってられなくなって、あたしは外を見た。空には星がたくさん光っていて、地
上にはただひとつの楽園の燈がついている。
そこは子供たちの楽園だった。愚かども達が集う偽りの楽園。
その楽園を優しく見守るごとく聳え立つ墓標のようなマンションの最上階にあた
したちは住んでいた。
世間的にはあたしたちは妻に先立たれ男やもめとその残された幼子の元に嫁
いできた新妻16才のぴかぴかの新家族ということになっている。もちろん真っ赤
なウソである。
その実態は“聖闘士”という地球の平和のために日夜戦い続けている正義の
味方、シュラというおっつわんと、昼は清く正しく優しいお手伝いさんで、夜はやっ
ぱり聖闘士している通り名(だって、本人がそう言えっていってるんだもん)“桜”
ちゃん。そして通称、“お嬢さん”と呼ばれているあたしだ。なんで、“お嬢さん”と
呼ばれているかというと、別に生まれが高貴な理由でもなく、(いや高貴かもしれ
ないけど)名前がまだないんじゃなくて、忘れちゃったからである。
あたしは記憶喪失だった。
記憶喪失。これはなかなか耽美な設定ぽかったけど、現実はそんなに甘いも
んじゃなかった。
大体、ほら、例えば家族があって、記憶喪失になったとするでしょう。それって、
自分は記憶がなくても、まわりは自分の記憶を知っている理由だし。
ある一枚の風景のパズルがあるでしょう。記憶を無くしちゃった子っていうのは、
白いパズル。でも、はめるべく絵は決まってるじゃない。周りにあわせればいい
んだから。
万が一、思い出せなくてもうっかりもと恋人なんかいたらもうけもんだ。
「記憶なんて関係ない。それでも、君は君なんだ」この台詞ひとつで決まってしま
う。ところがあたしの場合、運命かけていい男どころか、そのパズルの土台さえ
もないんだから。自分の記憶がないって気付くより、先にお腹が空いたほうが重
大問題だった。凍える寒さの中、どうやってご飯を食べるかそれが問題だった。
てなわけで、あたしは桜ちゃんにはとても弱い。桜ちゃんは道で雪だるまになり
かけていた私に、ごはんと寝床をくれた命の恩人なのでる。
おまけに行くあてのないあたしをここに置いて、記憶探しまでやらしてくれる。桜
ちゃんはとても偉い。自分のことだって大変なのに。いつだって、他人に気を使う。
「別にここにいつまでもいていいんだよ」
「そういうわけにはいかないでしょう」
夕食の後のいつものコーヒータイム。笑っちゃう位進展ないの、あたしの記憶。
と話題提供のために振ったネタを桜ちゃん、真剣に答えてくれた。気持ちは嬉し
いが、いつまでも甘えてらんないのも事実である。
第一、桜ちゃんは好きだが無償の善意って奴は苦手だったりする。タダより高
いものはないって言うしね。
あたしは桜ちゃんがいれてくれたそれを丁寧にのみ干してから言った。
「あっ、別におっつわんが気に入らないとか、顔をみてるだけでムラムラくるとか、
ここでの生活が嫌いとかそう言うんじゃないくてね」一つ、一つ言葉を選びながら。
「ま、何の手がかりも情報もないから、しんどいのは確かだけど」
桜ちゃんの目が切なく震えていたのをあたしは見ないことにした。
「だって、ここ、あたしの家じゃないもの」 そうしないとあたしは。
「人は、やっぱり帰らなきゃいけないと思うからネ」
―――引きずり込まれてしまう。永遠に、闇の中。
「………呼んでるだもん。だって、誰かがはっきり私の名前を呼んでるだもん。手
を出して救けを求めている………」
あたしの知らない男の人が、血と涙に濡れて、あたしに救いを求めて、あたし
の名前を呼んでいる――― 。それだけが唯一の手がかり。あたしの方こそ求め
ている、神様の手。
それがある限り、あたしは止まってはいけなかった。
桜ちゃんにというより自分に言い聞かせた言葉に、シュラが反応した。
「で、そいつはお前のことを何て呼んでるんだ?」
バカヤロウ。それが判ったら、こんな所でちんたらちんたらしてないわよ。
「大体、誰を呼んでるのか判らないのに、どうしてそれが自分の名前だって判る
んだ?」 あたしの名前だから、と正々堂々言えない自分が哀しい。そういう切な
い乙女心が判らないおっつわんが追い打ちをかける。
「お前、本当に大丈夫なのか?」
「………しょうがないでしょう、記憶喪失なんだもん」
あっ、説得力がなさすぎ。こいつは困った。仕方がないので、私は桜ちゃんに
泣き付いた。
「わーん。おじさんがいじめるのーー」それで私の勝利が確定された。
桜ちゃんは弱くて小さい者の味方だった。もちろん、それは理不尽な母親の愛と
か違って、正しいという意味を於いての味方であるが。とにかく私は勝った。問題
が解決したかどうかは別である。
ま、あたしとシュラのじゃれあいなんて、どっちもどっちで、(シュラはともかく、賢
い私はちゃんとそのことを知っている)大事なのはそれで桜ちゃんがすっきり元
気になることだけどね。あたしたちは桜ちゃんが時折、物凄い切ない目で、地上
の星を抱きしめているのを知っている。周囲の家々が遠慮しているのか、真っ暗
の中、文字どおりぽつんとついている一つ星。子供たちの楽園。耳を澄ませば、
夏の涼風にのって、笑い声なんか飛んできそうであった。
―――本当ならあの輪のなかに誰よりも真っ先に入っていけるのにね。
それなのに桜ちゃんは、叫ぶことも出来ずに此処にいる。そっと手を出しても、
遠すぎて、抱きしめられなくて、水のない涙を心の奥で流している。
桜ちゃんの、その端正な憂い含んだ横顔と見るたび、あたしは思う。少なくとも
記憶なんて忘れるもんじゃない。忘れた方も苦しいが、忘れられた方がもっと哀
しい。時々、記憶なんてどうでもよくて、ここでいつまでも保護者に囲まれた小さ
な子供というのを演じていたくなる。桜ちゃんは文句無くずっと側にいたいし、シ
ュラはからかいがいのあるおっつわんだとしてもだ。あれでそれなりに頼りにな
るし、何よりシュラの側にいる桜ちゃんは、年相応のふつーのいい顔をしている。
まるで、あたしよりちっちゃな子供みたいだ。あたしはそんな桜ちゃんも大好きで
ある。血かなんかで繋がってて、その上で胡坐を掻いてて、大事なものを捨てて
しまった輩よりは、あたしたちはずっと濃密だった。“家族”と表現してもさしつか
いのないほどだ。それなのに、あたしがそういうものを顧みずに、あてのない自
分探しを頑張っているのは、矛盾かもしれないが桜ちゃんのためである。別にあ
たしがちゃんと自分の家に帰れたからといってどうこうなるとは判っているが、少
なくとも救いになると思う。誰も本当に自分が誰だと判らなくて苦しんでいる時代。
記憶を無くした小さな女の子が、自力で正しい場所に還るサクセス。ちょっとした
ロマンでしょう?その真実しかあたしは桜ちゃんにあげられなかったし、実際、
桜ちゃんもそれを望んでいるはずだった。
ほってた体から流れる汗が、夜の風に急速に冷やされ、それでも体がまだ
熱かったあの時間・・・・・・、桜は確かに紫龍と呼ばれていた。
みんなが忘れないで、ちゃんと紫龍と呼んでいた 。
to be countinued LOST AXIA II
そして、僕たちはゆるやかな狂気のなか、
破滅にむかって走っている。
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