こほんとわざとらしい咳の後、読み終えるか本を取り上げる迄、閉じられるはずのない
紫龍の本がぱたんと音を発てた。

「氷河」「何だ、紫龍」

 座り心地の良いソファのわざわざ後ろから紫龍の髪を弄んでいた彼が顔を上げる。

「えーと、楽しいか?それ」

 ああと、氷河が触れていた髪を離した。

「楽しい」「そうか」

 ああと、云って氷河は又、紫龍の髪に触れる。大失敗である。城戸邸在中のブロンズ聖闘士+アテナには雰囲気を読ん

だり、言葉少ない人の気持ちを察したということについて、気が付かないフリをする人々と全く範疇にないタイプの人々の2

タイプが居るが、後者の典型である、
この白鳥座の聖闘士ははっきりと―――紫龍が苦手とすることであるが、単刀直入

に云わないと通じない。

紫龍は改めて氷河を育てたカミュの苦労を思い知り、彼を育てた極意を学びたいと思ったが、以前にカミュと対峙した時の

ことも思い出して、絶望的な気分になった。カミュはただ一言、氷河の居ない所で肩を叩いてこう云ってくれたのであった。

「頑張ってくれたまえ」

「―――あのな、氷河」「何だ?」

 だが、意を決したのだが自分を見つめる氷河の吸い込まれそうな青い瞳を見ると結局、何も言い出せない紫龍であった。

おまけに、

「すまん、呼んだりして」と、謝ってしまう。

「それはいい。お前の声、好きだから」「……そうか」

 氷河は紫龍の髪を手に巻いて自分の唇に、鼻先に持っていく。先刻からそれだけを繰り返してばかりいる。邪魔とい

うのではない。氷河は静かに髪を触っているだけだ。ただ、それだけなのだから、紫龍が気にしなければ全ては丸く収

まる。心頭を滅却すれば火も又涼し。そう思い直し、もう一度本を開こうとすると、珍しく氷河の方が気が廻し、持ってい

た物を手離す。

「もしかして、邪魔しているか?」

 紫龍は先刻から微動だ一つしていない。 

「いや、それ程でもない。ただ、ちょっと落ち着くか無いというか、何というか……」

「そうか、ならいい」と、氷河は又、何もなかったように飽きずに同じことを始めた。

 実の所、ネコが毛糸玉に無心に戯れている様にそっくりな様は、ちょっと重いだけで見ている分には微笑ましく写った。

「本当に好きなんだな、髪」

「ああ」口調は大人びても子供のように無邪気に微笑むから、つい紫龍にしては珍しく意地悪を云いたくなってしまった。

「お前も伸ばせばいいのに」

「自分のを触っても面白くはないだろう」

「もし、俺が切ったらどうする?」「えっ?」

「だから、髪を切ったら、困るか?」「止めた方がいいぞ」

 予想と反して案外冷静な一言であった。

「遊ぶ物がなくなるからか?」「それもある」

「お母さんにもそうやって触っていたのか?」「何故、判る」

「だから、切らないで欲しいのか?」「それは違う」

 マーマはマーマで紫龍は紫龍だ。愛するモノに優劣は付けることは許されない。が、紫龍とマーマには決定的な違い

あり、ある日、母がその長い髪を切っても衝撃は受けるが、こんな風に反対はしないだろう。

「じゃあ、なぜだ?」

「髪を切ったら、首筋に痕が付けられなくなるぞ。好きだろ、お前」

「痕って……?」「キスマーク」

 氷河の正気さは美徳である。それは認めていることである。彼は紫龍にはウソを付かない。

だからこそ氷河を信じて心と身体を委ねたのだ。が、しかし、紫龍はきっぱりと言い放った。

「切る。絶対に切る」「何で!!」

「何でもだ!恥を知れっ」「だから、どうして、そうなるんだ!」

「自分の胸に手を当てて考えてみろ!」「別に俺は心臓病じゃないぞ?」

「もう、切ってやるっっ。絶対にっ。吠え面かくなよ」

「……あら、本当に切ってしまうの?紫龍」

 その時、見事といえるタイミングで沙織がティーセットを持って居間に入ってきた。

「もったいなくてよ、綺麗なのに」「ですけど……」

「私も貴方の髪、好きよ」「そうですか?」

「ええ」

 にっこり微笑む沙織に紫龍も答えた。

「そうゆうことでしたら……」

「そう、良かったわ。……ねえ、氷河」

 白いポットで紅茶を入れていた少女が初めて彼の存在を認めた。

「ごめんなさい、貴方のカップを忘れて来たわ。お茶が呑みたかったらご自分で持って来て下さる?」

 まだ、ことの成り行きを飲み込めていない男が、それでも素直に立ち上がると、沙織がお願いとばかり手を合わせる。 

「立ったついでで申し訳ないのだけど、お茶の葉も持って来て頂きたいのだけど」

「ドコですか?」

「銀座阪急にあるマリアージュのバレンタインスペシャル。季節ですものねえ」

 それを聞いて氷河にしては珍しく少し考えて言葉を選んだ。

「沙織さん、それはお使いということですか?」

「そうとも云うわね。ついでにカナールでケーキもお願いね。チーズケーキがいいわ」

「それはヨコハマの戸塚にあるケーキ屋の名前じゃありませんか?」

「だって、すごく美味しいのよ」

 無邪気であるが、その瞳は百万の敵を見据えるのと同じ瞳だ。そして、彼女は厳かにこう付け加える。

「大丈夫、電車で行ってもよくってよ。つうか走って帰ってきてケーキを潰さないでね」

「それは車では無くて電車で行け云うことですか?わざわざ」

「もちろん、それから帰りにヤマザキの肉まんを忘れないでね。

この前みたいに一番最初に買って来ないでよ。後、肉まんが無かったらピザまんね」

「……」

 聖闘士は女神の名に従うものである。そして、沙織のおかげで紫龍の髪が切られずにすんだのも確かである。この

仕打ちがどうしても納得は出来なくとも、反論も許されない氷の聖闘士を笑顔で見送ってから女神さまは厳かに云った。

「紫龍も良かったわね。髪を切らずに済んで」

「沙織さん。何を……」

「だって、本当に邪魔されたくなかったら図書室でも屋根裏部屋でもドコでもあるじゃない?

一人になれる場所って。違って?でも、安心してね。氷河にはつけ上がるから内緒にして置いてあげるわ」

「えーと……」と、言いかけるが、紫龍の顔色はみるみる朱色に染まり、そのまま言葉を失う。

照れているのか、それとも云われて初めて気が付いたのか。ともかく紫龍の意外な反応に沙織は浅草で芋ようかんも買い

に行かせれば良かったと本気で後悔した。

……まあ、良いか。とにもかくにも今、この場には紫龍の心を独占している邪魔者は居ないし、

帰ってくるまではまだ時間があるのだから。

 沙織はそう考え直すと、まだ固まったままの紫龍ににっこり微笑みかけた。

「紫龍、その代わり一つだけお願いがあるのですけど……」

「何ですか、沙織さん?」

「私もその髪をちょっとだけ触らせて欲しいのだけど、……ダメ?」

「……濃い紅茶を一杯ご馳走して下さったらね」
 
 そして、紫龍と沙織は氷河が帰ってくる迄の時間、二人だけのお茶会を楽しんだ。

が、その紅茶の葉っぱがマリアージュのバレンタインスペシャルであることは沙織だけのヒミツであった。



                                 終わり






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