ねぇ、人に触れたことある?
意識を持って、その肌に指を滑らせたこと。
そうやって触れてみたいって、思ったことある?

何がキッカケかなんて判らないけど、急にその人のことが好きになったり。
横に、その人の空気を感じるだけでドキドキしたり、顔が熱くなったり、
傍に居たいのに逃げ出したかったり、

ほんの少し指と指が触れ合っただけで喉から心臓が飛び出しそうになったり。
どうしてその人のこと、こんなに好きなんだろう。
そうだ。これが好きって感情なんだ。

その人の仕草や目に映す方向を真似る。何に興味があって何が好きなのか知りたい。
同じ音楽を、どうやって聴いているのだろう。このフレーズが好き? 
ここのピアノ? バイオリン?

その声で、時には音を紡ぐのだろうか。その時、このフレーズを、どんな風に発音するのだろう。
“あなたなしではいられない”

そんな風に誰かに想われたことがある?
そんな風に誰かを想ったこと。


あなたはあるのかな。




Chapter 1 “白く透明な魚”


「ただいま、氷河」
部屋の中に居ることは、その気配でわかる。電源を抜いたTVが壁の向こうでもその存在を主張するように、無音の中にも発する気が漂っている。

紫龍がその気配のある方にそっと顔を覗かせると、透明な魚の泳ぐ水槽をじっと見詰め、金色の髪の主はそこに居た。
「ただいま。今日は誰も来なかった?」

傍に寄り、視線の先を合わせつつ問いかける。屈めた背の肩先から、ぱらりと黒の一房が流れて氷河の頬を優しく打った。
「・・・・・・」

それでようやく顔を上げ、水晶の瞳が同居人を映す。脱力していた腕がその一房をきゅっと掴む。
紫龍を映したのはほんの数秒で、また視線は水槽の中に戻ってゆく。握られた黒髪は離さない。くいくいと引っ張って、自分の横に彼を座らせた。

「メダカは元気だったか?」
空気を送り込む管が小さな音を立て、部屋の空気を浄化しているかのように弾ける泡が気持ちいい。その中で5匹のメダカがすいすいと、思いのままに一生懸命鰭を動かしていた。

「えっと・・・どれがお前だっけ」
紫龍は氷河の横に顔を寄せ、一緒になってガラスの向こうの世界で生きる魚達を覗き込む。
紫龍の言葉に反応し、すっと指先が伸びてガラスに押し付けられる。その指の先に一匹のメダカ。

「ああ、そうだ。背鰭が少し青くってお前の瞳みたいだって言ったんだよな。じゃあ俺はこいつだっけ」
水槽の角にいた、少し灰色のメダカを紫龍は指差す。するとその指を氷河が弾き、別の一匹を指し示す。一番透明で、背骨や血管まで見えるそれ。

一番弱弱しく、紫龍自身はいつもそれに文句を言いたかったが、それでも氷河は譲らなかった。
「そうだったな。俺はこれだ」
俺、と言っても自分のことを彼は紫龍だと解っているのだろうか。いつも指し示されるそのメダカは、紫龍というより海底で眠る彼の母なのではないか。

白い、白い死体。透明で美しくてまるで生きているみたい(でも死んでいる)。水の揺らめきに鰭を泳がせて、何処を見ているのかわからない瞳は開いて見えるけど実は閉じているのかも。
それは、まるで今のお前。

そっとその金糸を梳こうと指を伸ばすと、びくりと反応してすっと斜めに身を引いた。
「・・・・・・ごめん、触らないよ」
苦笑しつつ伏せられた瞳は悲しみの色。でも今の氷河にはそれが解らない。

12宮の闘いを終え、意識が戻った後も氷河だけはまだ夢の住人だった。



Chapter 2 “スイッチ”



いつか最後の闘いが来る。それがこの時だと思った。だから、すべてを投げうってこの一瞬に懸けることが出来た。



「紫龍?」
うっすらと瞳を開けると、光の目映さに緑色に霞む視界。白い天井。一定のリズムを打つ器械音。覗き込む人の顔。
「・・・・・」

声を出そうとして、咽の奥が渇いて張り付き、呻きも洩れなかった。
「紫龍、大丈夫? 僕がわかる?」
その顔には憶えがあった。わからない訳がない。でも、自分はそれではどこにいる?

すっかり死んだものと思っていたのはどうやら間違いだったようだ。だんだんと状況を把握する。
「しゅん・・・」
ようやく声を絞り出し、何度か瞬きをした。自分はまた死に損ねたようだ。

「よかった・・このまま目を覚まさないんじゃないかと思ったよ」
生きていると実感した途端、動こうと思った身体が悲鳴を上げる。微かに背中を浮かしただけでそれ以上自分の意思でも動かせそうになかった。

「心配かけた・・・ごめん・・みんなは」
掠れる咽でひとつひとつ言葉を紡ぎ、瞬が差し出した水差しで乾きを癒す。きしむ首をゆっくりと巡らすと、側にいるのは彼一人だった。

「みんなもう大丈夫だよ。財団様様ってとこかな。最新の医療技術があって、あとは本人次第だったから」
「俺が・・最後、か?」
本人次第も何も、当に死んだものと諦めていたから。そして悔いはなかったから。

それでもこうして目を覚ましてしまったのは、瞬のいうように財団のお蔭なのだろう。
「ちゃんと起き上がれるのは僕と兄さんだけ。星矢はまだベッドの上。氷河も覚醒はしてる・・・」
そうか。それでも、あの闘いの後で、全員が生き残った訳だ。

「痕が残ったね」
瞬は、俺の頬にそっと触れる。どんな痕かは知らないが、彼の表情を見る限りキレイな傷ではなさそうだ。
「僕も、消えなかった」

院内着のその下に、白い大きなガーゼ。開いた穴を塞いだツギハギのようにそれは彼に不似合いだった。
「紫龍は知らないよね、磨羯宮の後、氷河が宝瓶宮でカミュと闘って、次の双魚宮で僕が闘って・・・沙緒さんを救ったのは星矢だよ」

まだ思考が追い付かない中、瞬は堰を切ったようにしゃべりだす。待ったもかけられず、そのまま彼の話したいように話させるしかなかった。半分は聞き流していたと思う。

「ひどい闘いだったよね。みんな女神の聖闘士なのに、みんながアテナを護るために聖闘士になったのに、同士討ちみたいなものじゃんね。何であんなことしなきゃならなかったのか、何で僕達5人だったのか、ベッドの上で気がついた時すごいいろいろ考えちゃった。それにね、紫龍に言いたかったんだよ。みんなで誓い合ったのに、どうしてすぐにそれを破るんだよって。あの時本当に君が死んじゃったと思って、僕達は本当に・・・僕は、僕は、本当に僕は────」

仕舞いには同じ言葉をただ並べて、瞬は込み上げるものをその大きな瞳からぽろぽろと零し始めた。
「ごめん・・・」
動かない腕を、なんとか手のひらだけ瞬の方に向ける。瞬は大きく息を吸い込んでしゃくり上げるように嗚咽を洩らすと、その手を取って自分の額に当てた。

「無事で・・・よかった、紫龍」
温かい涙が幾重にも巻かれた包帯の中に染みて、ここに戻れてよかったと、その時ようやく思うことが出来た。




決して死んではいけないと、人馬宮で誓い合ったすぐ後、自分が命を絶とうとしたこと。ある一人にはこうして泣いて怒られ、またある一人にはちゃんと生きてたんだからいいんじゃん?と笑われ、ある一人は俺の方が真っ先に逝っちまったから何も言えんといい、そして最後の一人は未だに無言だった。


「氷河ね、どこが悪いのかよくわからないんだ。みんなのこともちゃんとわかるし、言葉も理解してるみたいだし。ただ、一言もしゃべらないんだ」
自分の師との闘いがどんなものだったのか、その氷河の様子がすべてを物語っていた。

自分たちには生命維持装置が取り付けられている。勝手に死ぬことは許されない。死んだとしても、また蘇生を強要される。
きっと、すべての闘いが終わるまで。

氷河にとっては、師と共に、遡れば母と共に死ぬことの方が幸せだったのかもしれない。




ブラックジャックみたいだ、と、包帯を取り替えている最中の紫龍の身体を見て星矢が笑った。
そういうお前もエジプトのミイラだなと言って、ぐるぐる巻きにされているその姿を笑う。
そんなことが言えるのはお互いに無事だったから。

シュラに切り刻まれた身体は両足と左腕の腱が切れ、処置の痕が縫い目となって残っている。顔には火傷の傷痕があった。
大量に使われるステロイド剤に、もう殆ど自分が生まれた時に授かった血も肌も肉も残っていないのではないかと思われた。

しばらくリハビリも無理なようなので、仕方なくベッドの上で所在なげにしていると、予期しなかった見舞い客が紫龍の病室を訪問した。
「一輝?」

「酷い有様だな」
瞬や星矢が語る闘いの様子を聞く限り、この男も決して楽な戦闘をしていた訳ではなかった。寧ろ酷い有様だったのは一輝の方かもしれない。

戦闘が終わってから、1ヶ月が経とうとしていた。
その間にほぼ全員がリハビリを始めるまでには回復していた。まったく見事な肉体と精神力だ。
「いろいろ心配をかけてすまなかった」

すぐにまた姿を消すかと思っていたが、あの闘いで何かが変わったのか一輝は腰を落ち着けてそれぞれの看病にも携っている。いくら財団の医師が優秀だからといって、結局は一般の人間を治療している訳だから、鍛え方も精神力も並外れた聖闘士を相手に看護指導が勤まるとは思えなかった。

実際かなり梃子摺っているようで、やはりここは聖闘士同士、お互いの身体機能を測ることの出来る相手に任すのが一番だった。
「で、お前が先生な訳か?」

くすりと笑って、腕を組んで佇む長兄を見上げる。その表情は不思議と落ち着いていて、再会を果たした当初の残忍さや荒荒しさは消えていた。
「いや、お前はまだ当分本物の世話になれ。俺は一番やっかいなヤツを引き受けてるからな」

「やっかいな?」
まさかと思うが、それを聞いて思い浮かぶのはただ一人だった。
「お前が氷河を?」

「あいつとは気の通じる所があったし、特に問題ないんだが」
考えればおかしくはないのだが、それでも一輝が氷河の面倒をみるという姿は想像つかなかった。
呆気とした顔で一輝を見ていると、ふっと笑われてその大きな手が紫龍の頭部を覆う。あまりにも自然な動作で紫龍が驚く間もなかった。

「お前も立てるようになったら手伝えよ」
そう言って病室を後にする。
後姿を見送りつつ、今まで感じたことのない不思議な感覚が、紫龍の胸骨の辺りをくすぐっていた。




Chapter 3 “ひどく残酷なあなた”




いつかはこの瞳が開くんじゃないかと。
ある時から眠り続けるその人の枕元で時々思う。
見る限りその表情は安らかで、時に呼吸をしているようにさえ思える。

そっと触れてみたくて手を伸ばしかけるが、希望を失いたくないから肌には触れない。
話したいことはあらかた話し尽くしてしまった。そこでじっと聞いていてくれるから、いつも話していたことも、ずっと話せなかったことも、これから起こるだろう出来事も、忘れかけていた思い出も、全部、全部。

もう聞いてもらうだけでは満たされない。自分の姿を見て欲しい。
ずっと、あなたに認められたくて頑張ってきた。あなたに今の自分の姿を見てもらう為に生き抜いてきた。そうやってずっと生きてきたのだと、気付いたのはあなたを失ってから。

いや、失ってはいない。でも、その瞳は開かれない。
こんなに傍にいるのに、何一つ伝えられない。声も、姿も、温もりも、喜びも悲しみも。
ここにあるのは抜け殻だけ。こんなものだけを自分に残して。かえって何もなければ諦めもつくのに。

あなたは、ひどく残酷だ。




開く筈もないその瞳が、ゆっくりと開いていった。
最初は、それが何を意味しているのか解らなかった。
じっと見つめていたその安らかな輪郭の中に薄く二筋の切れ目が入って、あ、っと思わずその切れ目を塞ごうとした。

そこから血が溢れるんじゃないかと。
でも何も零れるものはなく、切れ目から覗いたそこには硝子の玉が収まっていた。
周りが白くて中心に黒。

少し乾いているのか、本来持つべき瑞々しさはなく、外から水差しで綺麗な水を注いでやりたくなる。
どきりとしたのは、その黒がきゅるっと動いて自分の方を向いたから。
それでようやく、そこに眠る人の、決して開かれる筈もない瞳が開いたのだということに気が付いた。

「…・氷河?」
さらに信じられないことが起こった。瞳を開くだけではなく、今自分の名前を呼んだ? まるでよく見る夢みたいに。
じゃあ、もしかして次は?

予想通りこちら側にある腕がぴくりと動いて、その先が持ち上がってゆく。夢ならそのまま自分の頬を撫で、髪を梳き、自分もその腕に触れ、すべてであるかのように抱き締める。
隙間なく指を絡め、眠りから覚めた人の名を呼ぶ。そしてその人は美しく微笑むのだ。

指先が頬に触れそうになって、冷やりとした空気に高鳴った心臓が身を引かせた。駄目だ。これは夢ではないから。
届く筈の身体を失って、ぱたりとシーツの上に腕が落ちる。何故逃げる? と不思議そうに開かれた目蓋が問いかける。

消えろ、消えろ。夢なら覚めろ。もう糠喜びはしたくない。大切なものは全部失った。師でさえも自分がこの手で殺した。全部失ったからそれが出来た。
だから、そんな顔をするのは卑怯だ。お前は死んだ筈だ。

どれがゲンジツでユメなのかわからなくなって、今にも叫び出しそうになったところに、この部屋を訪れた人物に寸での所で救われた。
「氷河・・・ここに居たのか」

その声にはっとして椅子から立ち上がる。そういえば、どうして自分はここに来たのだろう。
「紫龍に会いたかったのか? でもまだ一緒に訓練するのは無理だぞ」
会いたかった? 誰に?

一度一輝の方を振り向いてしまったから、後ろのベッドに寝かされている人物に目をやれない。振り返って、そこにいる人が目を閉じていたら? 
手の甲から冷たい汗が沸いてくる。もし、目を開いていたら?

「・・・・・・・・・」
激しいジレンマでその場を一歩も動けずに居ると、一輝が固まった俺の肩を叩いて連れ出そうとした。イヤだ。
「? 氷河?」

足を床に圧しつけて一輝の強くない誘導の力に抵抗する。イヤだ、ここを離れたくない。イヤだ、早くここから連れ出してくれ。
どっちも本音で、どっちかに賭けることが出来ない。言葉に出来ない。

「氷河」
自分の後ろから名を呼ばれ、その声が耳に届くと、身体が大きく反応した。
一輝が、その後ろにいる人物と視線を交わすのが感じられる。やはり、早く立ち去るべきだった。

「どうやら紫龍と居た方がリハビリになりそうだな」
勝手に決められ、この病室が空く頃に、俺はここの元住人と一緒に暮らすことになった。




「・・・・・・ごめん、触らないよ」
そうじゃない。触られたくない訳じゃない。まだどう接していいのかわからないんだ。
まともに顔も見れないくらい。

ここにいる存在は本当に生きているのか? またすぐに消えてしまわないのか?
リアルな夢の続きを見ているのではないのか・・・・?
目覚めた時に、もう涙するのはイヤだ。現実を、また一人で生きていかなければならないのは。

一人ではない。決して一人ではない。なのに何故こんなにも彼一人に固執するのか。
するりと、自分の手の中にあった長い髪の一房が離れてゆく。離れてゆくその感覚に、心臓が喉のあたりで大きく弾ける。

地面が割れて、一人その向こう側に取り残されたあなた。自分と、あなたを隔てるその距離。落ち着いているあなたの顔。何も出来ない自分。
もっと話をしたい。何を思い、そんなに捨て身になれるのか。何の為に闘っているのか。

一度、その拳を交えてみたい。相手に向ける真剣な瞳を覗いてみたい。そこには何が宿っているのか。
たくさん、たくさん、話したいことがあった。聞きたいことが、聞いて欲しいことが、一緒に見たいものが、あなたにも見て欲しいものが、たくさんあった。

今になって────死んだあなたの年齢に徐々に近付くにつれて、自分が経験してきたこと、幼い頃一緒に過ごした日々、その時何を感じていたのか。今ならいろいろ話せるのに。あなたのことも、少しはわかってあげられるのに。

どうして、自分を置いて逝ってしまったんですか。たった一人で死んでしまったんですか。
目の前にあるのは冷たい水槽。水の中で揺らめく視界。中で泳ぐ小さな魚。冷たい。
「マーマ・・・」

自分の一番弱い部分を。思い出せば涙が溢れて止まらないその願望を。
思い出させたあなたは、ひどく残酷だ。





Chapter 4 “プライド”




「───大分戻ってきたな」
城戸邸の中庭の拓けたところで、一輝と手合わせをする。
いつもなら星矢に相手をしてもらう。彼なら一度闘った経験上、自分の拳の圧力やスピードなどを計れるので都合がいい。

でも今日はその姿が見当たらず、そして瞬も見当たらず・・・・・仕方なく諦めようとしていたところに一輝が現れた。
彼と本気で拳を交えるのは、まだ少し怖い。それをわかってか、一輝も自分からは拳を放たず受け止めるだけに専念する。

そうなると聖闘士としてのプライドが、彼に拳を打たせようと躍起になる。お蔭で知らず知らず本気になるから、終えた時の爽快感は自然と笑みが零れる程だった。
一輝は教師に向いているかもしれない。

そんなことを思ってタオルで汗を押さえつつ忍び笑うと、何だ? と問いかけられる。
「いや・・・・人を本気にさせるのが上手いなと思って」
「そうか?」

「ああ。先生に向いてるよ」
その言葉に、少しぎょっとして肩を引く。そんなの一生お断りだと一輝は言うが、その向こうに彼の未来の姿を見た気がした。

芝の上に直に腰を下ろし、身体の筋を伸ばす。まだ傷の縫い目が皮膚を引っ張るが、神経そのものはほぼ完治したようだった。
顔の火傷も何度か皮が剥がれ、もうすぐ何事もなかったかのように綺麗になる。人間の身体は不思議だ。

「あいつは、どうなんだ?」
自分とは表で一切顔を合わせないが、氷河も同じようにここで身体を動かしている筈だった。背を圧し柔軟を手伝う一輝にそれとなく聞いてみる。

「氷河か? もうなんともないぞ。凍傷の治し方はあいつ自身がよく知っていたからな」
「・・・・・そうなのか?」
家での彼は、まだどこか病んでいるようで、とてもまともに闘えるとは思えなかった。

「一緒に住んでて、何も話さないのか?」
「一言もしゃべらない」
「? 俺とは話すぞ、あいつ」

えっ、と、一輝を見る。そんな筈はない。氷河はまだしゃべれないし、まともに人の顔も見られない。
部屋での様子を一輝に話すと、そうかと言って髪を掻きあげ、眉間の傷に皺を寄せしばらく黙って理由を考えていた。

「お前に妙に反応していたから一緒にいるのがいいと思っていたが・・・・・・・少し離れてみるか?」
「・・・・」
ぐっと息が詰まる。その方が、いいのだろうか。

自分から逃げるような氷河の反応。視線が合えばすぐに逸らし、手を伸ばせば身を引いて避ける。
他のみんなとは普通に会話をしている? では何故自分の前ではしゃべらない? 自分とは話さない?
それなら・・・・・離れてみる?

自分は彼の傍に居ない方がいいのだろうか。離れれば、彼は普通に戻って、そして自分は─────
彼ノ中カラ抹消サレル
そんな気がした。

じっと黙って応えあぐねていると、頭上に大きな温もりが下りてきた。どきりとして、はっと顔を上げる。
「お前が悩むことはない」
「一輝・・・」

真っ直ぐに向けられるその瞳に、恐る恐る手を伸ばす。頬に触れると、驚いた一輝の瞳が触れた腕を見、そしてまた自分を見る。
自分でも何を思っての行動かわからない。ただ急に触れてみたくて。

頭に乗せられた手がするりと肩に下りてきて、ぐっと力が篭る。寄せられた唇は一瞬のことで、感情があったのかどうか。
「すまん」

すぐに立ち去ろうとする一輝の腕を掴む。
「・・・・・・・」
自分がどんな表情をしていたのか知らないが、それを見て一輝は立ち止まり、またゆっくりと目の前に膝を付くと、さっきよりもずっと長い温もりを自分に与えていった。




一度外れたたがは際限なく欲しいものを強請り続ける。
自分が求めなければ一輝は触れてくることはなく、口付けから先を強請ったことも何度かあったが服の中にその手が浸入することは決してなかった。

同じように反応しているカラダに何故? と問いかけたこともあったが、返ってきたのは無言の答えだった。
「お前はどうしてそう俺に求める?」
逆に問われてお前が好きだからと答える。

「好きだという感情も知らないだろう」
そんなことはない。他の誰にもこんな感情は沸き起こらない。一輝に触れて欲しい、一輝に触れたい。
しつこくその日は彼のカラダを離さずにいると、

「氷河から目を逸らすな」
突然出された名前にゲンジツに連れ戻された。一輝の顔を見上げると、静かに向けられる視線。彼の胸を強く押し、自分の身を引き剥がす。

「氷河が・・・なんだって」
「いつまでもあいつの変わりは出来ない、と言ったんだ」
思いもよらなかったその言葉に身体が硬直する。息が止まる。目が、瞬きを忘れてどんどん開かれてゆく。
自分を置いて去ろうとする一輝の背中に待ったをかけ、思考が追いつく前に右手が彼の頬にヒットした。

「・・・・・今日は打って出るぞ」
切れた口の血を吐き出し、不敵に笑んだ一輝の拳をその身に受けた。




Chapter 5 “地球の欠片”




「ただいま・・・」
帰ると、そこに氷河はいなかった。少しほっとする。
本気で殴りあったその後、一輝はもう自分は必要ないなといい、自分の前から去って行った。思えば彼がどこに住んでいるのかも知らず、会いたくなっても探すことも出来ない。

でも、それがいいと思った。彼があまりに傍にいてくれるので、それが当然のように思っていたが、考えてみれば自分の傍に残る人ではなかった。
ふっと息を吐き出して、ベッドの上に身体を倒す。ところどころ切れた肌が血をつけていたが、シーツが汚れるとかそんなことに気を遣う力もなかった。

瞳を閉じればぐんと重くなる身体。静かな部屋に、こぽこぽと水槽から酸素が弾ける音がする。
ちゃんと5匹、泳いでいるだろうか。
きっと一番先に水面に浮かぶのは自分。氷河がこれだと言った透明な魚。
また、瞬を泣かすことになっても、毎日の生活の中でゆっくりと自分が居たことも忘れられていくだろう。

死んだ人間をいつまでも記憶に留めておくような、そんな人間はこの世にいない。そうしなければ生きていけない。
でもまだ生きているから─────せめてその瞳に映して欲しい。

水底に深く深く沈んでいく途中、何故か二粒の蒼い珠が閉じた目の裏側からいつまでも離れず、いつかそれがこちらを向くのをただひたすらに待っていた。




老師、これは何ですか?
これか。これは今お前が住み、これからお前が護ろうとしている大切なもの。
これが、地球?


他にはない美しい星。中心の恒星を廻るいくつもの星の中で、そのひとつだけがトクベツなように。


なんだか・・・・選ばれた星のようですね。
そう。儂達は選ばれている。この星に生まれることを、この星に生きることを。この星を、護りたいと思うか? 選ばれた自分の運命を、受け入れることが出来るか?

はい。護ります。自分の運命を、受け入れます。
星に、裏切られてもか?
裏切る?

星も生きている。時には儂らの思いもよらぬ動きをするかも知れん。儂らを滅ぼすかも知れん。儂らはそれを、受け入れなければならない。何故なら、星が儂達を生んだのだから。星がなければ、儂達は生きてゆけないのだから。

星が選ぶ道を、自分達も選ぶと?
そう。ただひたすらに儂らは耐えるのみ。星の声を聴き、それを受け入れ、ただひたすらに待ち続ける。それがお前に出来るか?

待つって、何を待てばいいのですか?
星がお前を受け入れる時を。そうすれば、お前は土に帰る事が出来る。星と、一体になれる。
いつかは、受け入れてくれるのでしょうか。こんな小さな自分でも。
誰一人として零れることはない。必ず受け入れられる。お前が星を慈しむ限り。




すうっと意識が晴れるように瞳を開くと、隣で自分を覗き込む存在があった。
二つの蒼。地球の欠片。
「・・・・・・・・」

まだ夢の続きを見ているのかと思い、何度か瞬きをする。そっと手を伸ばすと、いつものようにそれは届かない。でも。
「お前と、手合わせをしたい」

いつもじっと見詰められることのなかったその瞳は真っ直ぐに自分を見ており、確かに自分に向けて言葉が発せられた。
「氷河・・・」
「表で待つ」

信じられない思いで身体を起こせずにいると、こちらの都合を聞きもせずさっとドアを抜け、氷河は姿を消した。
慌てて身を起こし、覚醒をさせる為水で顔を洗う。夢でない証拠に、一輝に殴られた痕がそこにあり、少しだけ冷たい水に沁みた。

外に出て、氷河の姿を探す。暗闇にも目立つ金の髪を見付けると、声を掛ける間もなく拳が飛んでくる。
「氷河っ」
どういうつもりかわからずにすべてを受け流していると、ちっと舌を打って焦れたように氷の技が押し寄せてきた。

あくまでも聖闘士同士で訓練をする場合、己の持つ技は使わないのが原則だ。私闘を禁じられていることもあるが、同士で傷付け合った末本番で役に立たないのであればどうしようもない。
流石に大技ではないとはいえ、氷河が冷気を放ってきたことに驚いた。

「容赦はしない。本気で来い」
距離をとって光る二つの蒼に、受け入れろという声が脳に響く。自分は試されている。
すっと冷静になって、彼のその心に集中する。全身に焦点を合わせる。

氷河も自分の中を見通そうとしているのがわかる。少しの動きも見逃すまいと、心を相手に移す。
敵ならいざ知らず、今目の前にいるのはそうではないから無駄に傷つけることはしたくない。また、その身を打たれるのもプライドが許さない。

「ハ──」
短く息を吐いて、彼の腹を目掛け拳を繰り出す。受けられ、捻り上げられるところを空に飛んで解き、切り替えし蹴りを入れる。

フワリと身軽に避けられ、次には彼の長い腕が顔の横を掠めていった。その腕を取って背を打つ。
手応えがあるが、瞬間自分の脇腹にも衝撃が走る。縺れて倒れ、上に圧し掛かられる。迫る拳を受け止め、体勢を逆に入れ替える。

ギリギリと、互いに掴んだ手首が悲鳴を上げ、早くも汗が滲み始める。下になった氷河がぐっと身を起こし、額が圧し合って間近で交わされる視線。
足払いをかけると、それを避けて自分の肩を軸に宙返りをするように氷河は後ろへと飛び退った。

「その瞳が見たかった」
唇の端を上げ、氷河が笑む。突然どうしたというのだろう。昨日まではまるで自分の前では無気力で、生きている印象すらなかったのに。

ゆっくり考えている間もなく、次の氷河の攻撃がやってくる。彼から意識を離せない。
それは、彼も同じ?
全身の神経が彼を捉えようとし、少しの動きも見逃さぬよう意識を集中し、次に何が来るのか、その先を彼になって考えようとする。

互いしか見えない。そんな状態は、ある意味性的交わりにも似ている。精神を犯される。
「何を考えてる?」
放った拳を互いに受け止め、身体が近付いたところに氷河が問う。何も考えていない。何も考えられない。
火花が散るようにまた離れ、また相手に向かってゆく。

「誰とでも死ねるのか? 拳で語った相手となら、お前は」
「何────」
氷河の言葉に耳を傾けた瞬間、頬に拳がヒットする。視界が揺らめく。
「く・・・」

三半規管に衝撃を受け、思わず片膝をついた。
「・・・終わりか?」
ゆっくり歩み寄る氷河に、キッと視線を放ち拳を繰り出す。

「まだだ」
ひゅん、という鋭い音。数メートル離れたところの木々が衝撃を受けてがさがさと葉を落とす。氷河の頬に一筋の赤い血。

「今まで何を考えてた」
今度は自分が彼に問う。自分を避け、意識から切り離し、それがこうして振り向いたのだ。ずっと待ってたのだ、この瞬間を。

「お前が知りもしないこと・・」
迫る蒼と共に答えが返ってくる。その隙を見て鳩尾に叩き込む。ぐっと唸って膝を付く彼。
「終わりか?」

同じように言葉を返す。互いに息も切れ始めていた。
近付いて手を差し出すと、それを取らずに耳の横を通り過ぎる腕。まだ続くのかと思ってかわそうというところに全体重を掛けられ、縺れて後ろに倒れ込んだ。

「痛・・・・っ氷河、お前」
文句を紡ぐ前にはっと息を飲んだ。彼の頬を伝っているのは涙?
そっと伸びてきた指が、自分の頬を触る。確かめるようにするするとすべって、両手で頬を包み込む。

「まだだ。終わりじゃない。まだ、話したいことがたくさんある」
「・・・氷河」
「お前は、まだ生きている」

自分の上になったその瞳から、一滴温かい粒が頬に落ちかかる。蒼い珠が水を含んで、本物の地球のようだった。




「氷河にね、“紫龍は生きている”って、言ったんだ」
その日氷河は瞬と訓練をしていて。
一輝は自分と別れた後、その一言を彼に伝えて邸を去った。

「僕もね、いろいろね、見えてなかったものが見えた感じ。よく氷河を見て、少し考えれば気付いたことなのにね」
誰もが目に見えていたし、ちゃんと言葉を交わして互いが生きていると実感した。だから、あえて確認をしなかった。

生きている。
その言葉を他の人間の口から聞くことによって、確信する。ちゃんと生きている。目の前に存在して、温かい血をその中に廻らせている。




「お前は、生きているんだな、紫龍」
何度も何度も、頬に触れた指が肌を滑る。何かを確認するように。
くっと喉を鳴らして、耐え切れなくなったように氷河の額が首に押し付けられ、シャツを通して胸に熱い雫が染みていく。

誰かより先に死ぬということは、こんなにも人に衝撃を授けるものなのかと、温もっていく胸がひどく痛んだ。
自分など、ほんの小さな存在だと思っていたのに。
「ああ、生きているよ、氷河」

逃げることのないその金髪に指を通し、慈しむように撫でる。確かに自分は今まで生きていなかったかもしれない。この手の行き場を失っていたから。
伸ばした手が彼の元に届き、それでようやく自分の存在を認めることが出来た。




“あなたなしではいられない”
それはそんな甘い感情ではなかったけれど、確かに彼には自分が必要で、自分には彼が必要だった。
小さな管から立ち上っては消えてゆく酸素の泡は、途切れることなく自分達を生かし続ける。
自分達は、一生懸命その水槽の中で鰭を動かし続ける。






ねぇ、わたしたちは魚じゃなくてよかったよね。
こうして触れ合って、言葉を交わして、正面からあなたの顔を見ることが出来るから。
でももし魚だったとしたら。
同じ水槽の中、もしガラスが割れたら一緒に流れ出して、もし酸素がなくなったら同時に苦しんで。
きっと一緒に死ねるから、それも幸せだったかもね。



今度こそ、死ぬ時は一緒だよ。
約束して、ね。






『まだ、終わりじゃない』





渡龍一様の「Child+Youth+DRive
 4989のキリバンです。
    ちなみにリクのお願いのお電話(それもアウトかも)
した時には酔っぱらっておりました。
     そして、めっさ気が大きくなっていた私は、自分でも手に余りそうな、(そーなんです)
  一輝と氷河と紫龍の三角関係をリクエストしてしまいました。
しかも、氷河が勝つように強制したような気が。
    ついでに、長いのとか云いました。あああ。
  このお前、何様だよという要求に対し、
   渡さんは(確か)
   「お時間、頂きますよ」と、仰いながらも実は3ヶ月ほどで、
しかもきちんと全てを網羅しつつ、(ちなみに長さは二段打ちで13枚)
    渡さんらしくて仕上げて下さいました〜すごい。
     なのに、こちらUPがこんなに遅くて申し訳ないです。
      
初め、読んだ時、どうなることかめっさドキドキしたのですが、
     収まる所に収まってくれてほっとしましたー。
    渡さんのお書きになる二人は、ちゃんと聖闘士の二人で、
   原作に近い雰囲気というか、
   気が付くとすぐ乙女に走るワタシと違って、(自覚はあるんだ)
   ちゃんと最後まで男の子の、リアルな描写がたまりまへん。
   そんなこんなで氷河紫龍をこれからも、よろしくお願いします。

   読み応えのありものをありがとうございました。<(_ _)>

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