大丈夫だよね。それは「どんど でぃすたーぶ」の札が掛かっているピアノ室。氷河がこの部屋に籠もる時は、頃合を見計らってお茶を持っていくのはいつものことで、第一、公然とお三時を要求したのは彼の方なのだから、遠慮することはない。

全部判っているのに、二人分のティーカップをじっと見つめることしか出来ない紫龍に、
「何しているの?」
「文化祭の練習」突如、掛けられた声にも動じることなく持っていたお茶を一滴も零さずに紫龍は答えた。

「ピアノとバイオリンでデュエット。クラス代表だって」いくつもある音楽室はクラス単位の出し物に占拠されて、此処しかなくてなと氷河が笑う。
 それにこの家ならお茶とチーズケーキがサービスされるしと、屈託無い。

「そっちじゃなくて、―――お兄ちゃんは何をしているの?」
「だから、お茶を持ってきたんだよ」
「じゃあ、そうして上げたら。冷めちゃうわよ」 

この妹が云うことは正しい。もちろん二人だけなら、気軽に自分の好きな本を持ち込んでそのまま氷河のピアノの音を何時間でも聞いていられるのだが、相手がいるとなると話は変わってくる。

「でも、春麗さんと氷河、此処にこもり切ったきりで、もう二時間も出てこないから……。邪魔しちゃ悪いだろ」
「もしかして、相手の人って女の子なの?」
 こくんと紫龍が頷いた。
「氷河が?へえ、やるわね」

 学校ではそれなりにバレンタイン何かでもチョコレートをなんぞをもらってくるし、お誘いの電話も掛かってくる。だが、この家に他人を連れて来ることがなかったから、実質、氷河の初めての友達といってもいいだろう。

長い髪を三つ編みに纏めた紺色の制服が良く似合う石鹸の匂いがする女の子。しかも贔屓目が無くても可愛い部類に入る……。だが、沙織の関心は別の所にあった。
「それで、扉の前でお地蔵さんなんだ」

「邪魔できないだろ。静かだし」
「此処って防音が完備されているから、当たり前でしょう」
 その点は素直に紫龍も感心する。これだったら、多少の声も漏れる心配もない。

 それは判っているのだが。紫龍は知っているのだ。いつもこの秘密の扉を開けると何が行なわれるか。そして、もしも外側にいる自分がこの扉を開けた時、見てはいけない光景が存在するとしたら、……どうすればいいのだろう。     

「んなの週刊誌の読みすぎだって」何も知らないことになっている妹は言葉を選んでそう告げる。
「でも…… 」
「ああ、もう焦れったいわね。やっていたら、その時よ」

「沙織」と、紫龍が止める間もなかった。沙織の顔を目掛けて一冊の楽譜が飛び込んできた。
「あっ」と、声をたてる間もなかった。

「ごめんさいね」と、氷河に覆い被さっていた少女がぽんぽんと埃を払う。
「────お邪魔でしたから?」顔を半分、引きつらせながら、そう問い掛ける沙織に氷河が答えた。

「丁度、休憩がしようと思っていたところだ」
「ええ」と、頷いてから春麗は呟く。
「初めてね。意見があったの」
「そうだな」

 有る意味氷河と対峙できる人間を家族外で初めて見るが、それは心臓に悪いものだったと沙織は初めて知った。穏やかな次兄は何時もこんな気持で家族バトルを見ているのかしらと、隣を見ると紫龍はニコニコと楽しそうに氷河と春麗のやりとりを聞いている。

「私はともかく、城戸くんは天才だから、私のような下々にに合わせてくれないのよね」と、入れなおしたお茶を片手に才女はそう語った。
「お前こそ期待の新星だから、俺のレベルに落としてくれないからな」

 きらりと少女の目が光った。
「だから、さっきのはちゃちゃちゃのちゃで、ピアノが入るんでしょう」
「何処に耳が付いているんだよ。ちゃちゃのちゃでで入れないと後のリズムが締まらないろうが」

「じゃあ、聴衆に聞いて貰いましょう。……
 が、その二人の言い分を紫龍は何て答えて良いか判らなかったし、おでこには先程、紫龍が貼った絆創膏が輝いている沙織は、

「全然判らないんですけど」
 ずずっと茶をすするだけの気まずい沈黙に終止符を打ったのは意外なことに紫龍であった。
「すいません、お役に立てなくて……。どっちも綺麗だとは思うんですけど……」

「あら、私たちは聞きに来てくれるお客様にそう感じて頂くために演奏するんですから……、ねえ、城戸君」
「まあな」
「本番も是非いらっしゃって下さいね。第九――歓びの歌とトトロとムーンライト伝説ゴージャスバージョンの予定なんですけど」

「すごいラインナップですね」
紫龍の縋るような眼差しに負けて――― もちろん本人は気が付いていないのだが、一緒にお茶をする羽目になった少女は持ち前の社交術を駆使するのに精一杯だった。
「そうでしょう」

 そうとしか云えない沙織の意見を素直に受け取った少女は、しかし、次の瞬間には浮かない顔を浮かべた。
「ク×ガやりたかったんだけどさあ。城戸クン最後まで反対するから」

「お前だって俺のさ×らちゃんにケチをつけただろうが」
「だって、一般受けしなさすぎるじゃない」
「お前だって喜ぶは来るかどうか判らないお子さまと一部の姉ちゃんだけじゃないか」

「本当はセーラー服、着たかったのよね」他は譲歩できてもその点だけは今だに諦められない少女であった。
「天王は×かと海王み×るのコンサート。それで申し込んだのに、この人が最後まで反対するんだもん」

「当たり前だ。何で俺がセーラー服を着なくちゃならないんだ」
「どうして?似合うのに、あのふりふり衣装てば、徹夜だったのよ」
「だからだよ」そう力を込める氷河に紫龍がくすっと笑った。

「───仲良しなんだね。氷河と春麗さんて」
「これは仲良しとはあんまり云わないと思うのよ、紫龍」なのに沙織はそれ以上は云えなくなってしまった。初めて見る。兄の目に浮かんだ白いもの。

「お兄ちゃん、……?」
「えっ?」その言葉に全てが凍り付いた。紫龍の目から後から後から零れる真珠色の綺麗な泪に。
「ごめん。ちょっと目にゴミが ……」    

「紫龍!!」
 一瞬足りとも迷いはなかった。氷河はそのまま直ぐに紫龍を追い掛けたはずなのに、捕まえられたのは階段を降りた先にある流し場であった。

「……紫龍」
 だが、氷河の危惧に反して返事はすぐに返ってきた。振り向かないで。
「ごめん、びっくりしただろ」

 無理に顔をこちらに向かせて、零れるそれを舌先で拭っやる。
「ごめん」
 こんな様子に心当たりは一つしかない。

「お前、まさか妬いているのか?」
 Hの時よりも頬が上気している。そんな自分が恥ずかしくて、もう一度、下を俯く紫龍に、
「悪かった」氷河が魔法を繰り返す。

「女の子なんてもう連れてこない」
「そうじゃなくて……、何て云うんだろ、音の世界じゃ俺は何にも氷河の役に立てないんだなあと思ったら、なんとなく……」

「でも、俺が弾いているのは自分のためだけど、一番聞かせたいのはお前だから……」
 ぎゅっと腕に力が籠もる。判っている、氷河は何にも悪くない。悪くないのに、この腕がいつもより心地よいので、紫龍はしばし、その温もりに酔いしれることにした。他の家人が帰ってくるまで────。



 そして、残された二人の少女は別段、途方にくれることもなく呑気にお茶の続きを再開する。
「いつもこんなに仲良しさんなの。あの二人」
「───ええ、まあ」            

 二の句が繋げず、お茶ばかり飲む少女に、
「あら、まあ、一歩先を超されちゃったようね」 
 でも、今日の所は引き下がってやるとしよう。何しろ、泣かせてしまったのだから。

「ピアノとバイオリンなのに、ライバルなんですか?」ちょっといやな予感がして、そう聞いてみる。すると少女は満点の笑顔で答えた。
「そっちもだけど、どっちかって云うと恋のライバルかな。氷河は気が付いていないみたいだけどね」

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