瞳を閉じて、一番最初に浮かんだ人の顔は貴方が一番、大事な人なの。
       と、昔、マーマが教えてくれたことが蘇る。
       それが判っていれば、大丈夫なの。
       それじゃあ、マーマの目には誰が映っているのと、
       俺の言葉にマーマはただ静かに微笑んだだけであった。
       そして、今、あの優しい龍のもう見えない網膜にいつも映っているのは、
       誰なのだろうと、あいつの目が無くなってから、
       俺はずっとそんなことばかり考えていた。








その扉の前に立ったのは単なる気紛という奴であろう。
見たい笑顔があったわけでない。

ただ、近所を通りかかったら、その家が在ったというに過ぎない。

 ここまで来て素通りというのも、
後々、ばれた時のことを考えると、得策ではない。

しかも、手には偶然、虎屋の虎焼きの包みがあったりする。

 これが神の導きという奴であろう。それに今の時間なら、

うるさいのに見つからずに、この包みだけを渡せられる。

「誰も居ないな」と、無意味な誰何をしながら、

扉に手を掛けた一輝はちょっとしたアクシデントに出会った。
ドアが開かないのだ。

 がちゃがちゃとノブを動かしても、開かない。
押しても、引いても、開かない。

金持ちの少し趣味の理解できないインテリアの

大きなスチールのドアはがんとして、一輝の行方を遮っていた。

 試しにチャイムを鳴らしてみたが、
その音さえ午後のまどろみの中に消える。

ぱたぱたと急ぐ足音も聞こえなかった。
それどころか、扉はさらに冷たく一輝を拒んでいた。

それも、ちょっと住人が買物に出ていると云った類のものではない。

人の温もりがしない空き家、いや、取り壊し寸前の廃墟のようであった。

 瞬間、形容しがたい不安と、それを打ち消すような怒りが一輝を襲った。

 彼は知っている。自分たちが帰れるところは、

此処しかないということを。もちろん、そんなことは認めてはいないが、

事実であるならば仕方がないコトである。

 帰るところに家があるのではない。家があるから帰るのである。

故にその家は自分に常に開かれていなければいけないのだ。

と、一分前の自分の行動も忘れる長男である。
人、これを男のロマン、女の不満と云う。

もちろん、本職の自分の力を使えば造作もないことだが、

一輝の目的は侵入であり、破壊ではない。
わざわざ帰るだけで扉を壊していたら、

あの小さな女神に何を云われるか判ったものではない。

いや、本当はただ信じたいだけなのかもしれないが。

息を整えて、もう一度、把手に手を掛ける。

もちろん、からくり屋敷ではないので、これが引き戸と云うことはない。

が、押しても引いてもびくともしない。

宥めてもすかしても、扉は沈黙を閉ざしたままであった。

「……上等じゃないか」と、一輝の顔に闘いのそれと同じ笑みが浮かぶ。

 扉には微塵の小宇宙も感じられないが、

それだけにこういう悪戯をする検討は付いていた。

それが誰の挑戦であれ、売られたケンカは買うのが男というものである。

 イヤ、この難関を乗り越えてこそ、
輝く希望に溢れた世界に辿り付くのである。

 そう決め込むと一輝はもう一度、扉の前に迎う。
今度は本気であった。

 と、云うのが半時間前の話しである。

別に一輝が根性なしと云う理由ではない。
が、飽きっぽいのも、又、事実であった。

 何でこんなコトをしているのだろうが、
何でこんなん所に居るのだろうに変わり、

次の瞬間、一輝は大理石の上に寝っ転がっていたのであった。

頭の中がからっぽでもう何も考えられない。

息が弾んで、全身から汗が吹き出るのが判った。
火照った体に、石の冷たさが気持ち良い。

振り替えれば、汗を掻くなんぞもう、何年もなかったように思う。

 そして大の字になってその青い空を見上げ、
頬に触れる風に目をつぶっている所に彼は現われた。

「何をしているんだ?一輝」

 それは小さな子供が、地面を観察するがごとく無邪気な表情。

「何って……」一輝は手を延ばして紫龍の瞼に触れる。

相変わらず、堅く閉ざしたままのそこは、だが、
いつでも瞬間だけ、

彼の目がそのままであること失念させる。

 不意打ちは一輝の専売特許のように思われがちだが、
中々どうして、紫龍も負けず劣らずだと思う。

 だから、こう云う時の答えは決まっていた。

「お前こそ、何をしているんだよ」

「ああ」と、一輝の視線の意味を察したのか、
白いビニール袋を差出しながら、答える。

「夕飯の材料を買いに、ちょっとそこまで。

「……、もしかして、ドアが開かなくて困っていたのか?」

「フッ、植木鉢も犬小屋もないからな、この家は」 

一輝にしてはとっておきのネタであったが、
紫龍はきょとんと少し困った顔をした。

「と、いうか………使ってないんだよ、そのドア」

「えっ?」

「……瞬に聞かなかったか?このヘン物騒だから、
使っているのはもっぱら裏口の方だけって」

「裏口?」

「沙織さんが小さい時に使っていた別邸だよ。
と、いっても一軒屋のちゃんとした家で、

本館との通りがちゃんとあるけどね」

 云われると、そんな話を聞いたような気もする。
森の奥底にあるような、ひっそりとした佇まい。

あの屋敷に守られるように建っている、白雪姫が小人と住む家。

もっともねと、一輝は弟の悪戯な笑顔を思い出す。

「うちの白雪姫は一人じゃないんですけど」

「……それでお前は何をしているんだ?」

 こっちだよと、進み始めたその背中の問いかけに
紫龍は不思議そうな顔をする。

「何でお前が、そーゆーことをしているのかって意味だ」

「他にする奴がいないから。別に嫌いじゃないし……」

「……」

「……」

 紫龍の言葉は簡潔であるが、意味が通じないことが多々ある。

見ている視線の行き先が違うのか、一つ高い所に住んでいるのか。
時々、

苛立ってぶん殴りたくなるが、子供を殴る真似も出来ず、
判りやすい言葉を見いだす。

一種のバイリンガルである。

「使用人はどうしたと、聞いているんだ」

「いなくなったよ、誰も」と、何でもないように紫龍は云った。

「拳一つで壁に穴が開いたり挨拶代わりに凍りついたり、

爆弾騒ぎが日常茶飯事……。

俺たちだって女神を護るのが、精一杯だからな。

普通の神経の持ち主なら、仕方がないだろうが」

「……まあな」

だが、普通以上に繊細な神経を持っていても、
この渦から逃れられない奴もいる。

それに気が付くこともなくだ。
思わず笑みがこぼれる。が、幸か不幸か、

紫龍に男の珍しい優しい笑顔は見ることは出来なかった。

「六人で暮らすのなら、俺一人で何とかなるし……。

でも、万が一を考えといてこの扉は残しておいたんだ。

物騒なこともあるし、一種のトラップだよ」

「………ヤバイのか?」

 いやと、紫龍は答えた。

「新聞の勧誘とか、家族計画の押し売りとか、

……NHKの集金もしつこいし」

「払ってやれよ、NHKくらい」

「俺もそう思うのだが、

倹約することに超したことはないと。お嬢さんが……」

「……まあ、あいつはそういう女神だからな」

 つと、2、3歩前を進んだ紫龍が思い出したように、立ち止まる。

「何だ?」

「いや、まだ云ってなかったから」

「だから、何だ?」

 黒い髪が宙を舞って、紫龍がゆっくり振り返る。

「お帰り、一輝」初めて見るのに、どこか懐かしい笑顔。

天上から舞い降りた。こーゆーのは悪くないかもと、一輝は思う。

「皆、待っていたよ」

 そう云って差し出された手を引っ張って、一輝は自分の方に引き寄せる。

胸の中に納まった、紫龍は何にも知らないように、きょとんとこっちを見ていた。

その彼の顎を取って上を向かせる。

「言葉より俺は、こっちの方がいいけどな」

 目を暝る必要は紫龍にはない。

そうして、剥出しの唇に触れようとした瞬間、一輝の上に小さな稲妻が光った。

「ただ今は?」

 それには答えず、テラスの上の小さな少女を睨みつける。

「……いつから、居た?」

「虎屋の前で一時間も思い悩むくらいだったら、

電話の一本でもかければ良かったのに。あたし、みたらし団子の方が好きなのよね」

「どこからで見てたんだ!!」

「あたしに、それを云わせたい?」

「……」

「まあ、いいや」お嬢さんは思い切りよく、その不毛な会話にケリをつけた。

「それ持ってさっさと部屋に入ってよ。話があるから」


  

  
      
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