紫龍につれてこられたのは、あの莫迦でかい家の後にあるとは思わないくらいの、

普通の小さな家であった。小さいといっても、比べる対象との問題で、

少し大きめの一軒家で、成程、連中が住むには丁度いいサイズである。

柿の木が見える廊下を通りながら、案内されたそこは、厳格な親父が

座っているような床の間がある居間。不思議な温もりを残したそこには、かすかに畳の匂いがした。

「最初に云っておくがな」
 
その八畳くらいの和室で、紫龍が入れたお茶を一杯、呑み干した一輝ははっきり云った。

「俺がここに来たのは気紛だからな」

「……」

「お前らが聖域に行ってケンカ売ろうが何しようが、俺には関係ないからな」

そう言い切って、緑茶を一気に飲み干した一輝に、

「………もうよろしいかしら?」と、天使の如くの愛想笑いをこぼしたお嬢さんは、

一輝の前に茶色の封筒を差し出す。薄汚れたB6大のそれには、通帳とキャッシュ・カード、

判子が入っている。だが、それが何であるか理解するまで、しばしの時間を要した。

「………何だ、これは?」

 沙織は答えた。

「これはね、キャッシュ・カードと云ってね、ほら」と、通帳を開いて見せる。

「ここの所に数字が書いてある限り、お金がいくらでも引き出せる魔法のカードよ。

と、云っても呪文を唱えるんじゃなくて、ATMて機械があってね、

そこにこのカードを差して貴方の誕生日を打ち込むと、あーら、不思議…」

「俺が聞いているのは、そう云うことじゃない」

それは腹のそこから響き渡る声であった。恫喝といってもいい。

「お前だって、本当は判っているだろうが、お嬢。俺が云いたいのは、この通帳にある、えーと……」

「0が八つでジャスト一億円よ。お願いだから、一の位から数えないでよ、貧乏人」

 普段だったら、この最後の言葉に激しく反応する一輝であったが、

「それでその一億って、何だ?」

「お爺さまの遺産よ」と、少女は答えた。

「でも、いさんて云ってもソルマックで調節できる胃酸じゃなくて……」

と、云いかけた沙織は一輝のいつもより鋭い眼光に、ため息を付く。

本当は沙織だってこんな猛獣の首に鈴を付ける真似はしたくなかったのだが、

これが出来るのは世の中で一人、……少なくてもじじいに頼まれたのは

自分だけなのだから仕方がない。それが生きている者の義務という奴であろう。

 そうやって、少女は生き、生かされている。この輪廻は誰にも断ち切れない。運命と一緒で。

「あなた方の失われた時間とか、その他の色々な物がお金で片が付くとは思わないけど……」

それはあの爺さまだって、知っているはずである。

「でも、お爺さまはずっとこれだけだったから、しょうがないの。これが精一杯の謝罪なの。だから……」

 ごめんなさいと。心の中で叫びながら、沙織は深々と頭を垂れる。

爺さまの意志を伝える者と、それから、女神として。

声に出してはいけない言葉を、何度も何度も心の中で叫ぶ。

 そして、顔を上げ一輝を見た少女は又、元の小さな妹であった。

「とにかく渡すのが私の仕事だからね。もらった後に寄付しようが、

豪遊しようが、女の後始末に使おうがドブに捨てようが、株を買おうが、

それで破産するのも貴方の自由だから……。取り合えず受け取ってね」

「……判った」そう云って一輝はそれを懐にしまう。少女は怪訝そうに一輝を見ていた。

「何だ?」

「……って、それだけ?」

「まだ、他に何かあるのか?」

「ううん、そうじゃなくて………」正直なのか、それとも気が弛んだのか、余計なコトが口が出る。

「貴方のことだから、もっともっと暴れると思ったの。だって、一輝って素直じゃないんだもの」

 その言葉にふっと男は笑みを洩らした。

「ガキじゃないんだからな。『こんなもんでマーマは帰らない』とか、

『姉ちゃんを出せ』とか、『兄さんを元に戻してください』とか云ったところで、しょうもあんめい」

「……そうだけど」

「それに受け取ってちまえば、あとはどうしようと俺の勝手だよな」

 えっ?と、問いかける間もなかった。

次の瞬間、ぱりんと一輝の手の中でプラスチックがパリンと二つになる音がした。

めりめりと紙が裁断される。

 そうやって形を無くしていくものを、沙織は茫然と見つめるしか出来なかった。

「つまりこうしても、いいんだよな」と、それを灰皿に乗せ持っていたライターで火を付ける。

ぱりぱりと香ばしいが匂いが辺りに立ち籠めた。

沙織は茫然とそれが残骸になっていく様を見つめるしか出来なかった。

「……沙織さん」と、いつものように何事もなかったように紫龍が云った。

「顎が外れかかってますよ」

 はっと、少女は我に帰った。

「………ちょっと、一輝」

 多少のことは前回のことで覚悟は出来ていたが、世の中には許容範囲というものがある。

こちらに非があるのが判っていて、下手に出ていただけに、簡単に踏み付けられると、

無償に腹が立つ。前半、好意的だっただけに、余計だ。

「あんたねえ、何様のつもりよ。そりゃあね、お爺さまのやったことは非人道的よ。

女のあたしから見てもね、許せないわよ。でもね、だからってね。

やっていいコトと悪いことの区別もつかないの?99億よ。

しかもあの当時に作ったのよ。用意するのも大変だったのに、このすっとこどっこいが」

「……って、もういないんですけど」

「……やっぱり、無理なのかな」と、大きなため息の後、沙織が云った。

「何がですか?」

「そりゃあ、許してもらおうとは思わなかったわよ。

こーゆーのの一番の特効薬って過ぎて行く時間ですからね。でもね、歩み寄りってあるじゃない。

だって、憎しみをいつまでも続かせるのって、しんどいですもん」

「まあ、そうですけど」

 気持ちは判るけどさと、少女の唇から昔だったら、絶対に出てこない言葉が洩れてくる。

「でも、あたしだってしんどいのよ。こーゆーの。それなのに、あの男は、いいえ、一輝だけじゃないわ。

氷河だってさ、一時期すーごく不貞腐れていたじゃん。登校拒否のガキみたいにさ。

この頃、少し元に戻ったけどやっぱりへんな奴には変わりないし……。

たくっ、誰の金でLDが買えたと思っているのかしら。うっきー」

卓上の物を散らばしたお嬢さんは、その矛先を紫龍に向けた。

「貴方は何とも思わないの?」

「そうですね」と、温くなったお茶を入れ替えながら、やっぱり何にもなかったように。

「まあ、これ位で済んで良かったかなと……」

「……それもそうね」と、沙織は大きく息を付く。

 昔だったらと、いきなり火を噴いていてもおかしくはない状況かもしれない。

と、菓子受けにのった干し芋を頬張りながら、沙織はそんなことを考える。

「まあ、しょうがないわね。相手はあの一輝なんだもん。こっちが大人にならなくちゃあね」

「そうですね」微笑んだ紫龍が立ち上がる。

「じゃあ、俺、少し様子を見てきます」

「……あっ、待って」その言葉に立ち止まった紫龍の、案外に彫りの深い顔を沙織はじっと見つめる。

 瞳を閉じたままの紫龍は、どうしてだろう。前ももっと綺麗に微笑んでいた。

固定された、それしか表情がないみたいに、穏やかな微笑みをいつも浮かべていた。

まるで仏像のようねと、沙織はその紫龍の目の上にぴとっと手を当てて、ごめんねと云った。

「何がですか?」

「だって、紫龍には色々、迷惑かけてるから」

「それほどじゃありませんよ。だって俺、こーゆーの嫌いじゃないですから」と、紫龍が又、微笑う。

その笑顔が本物だけに、少女の胸がしくっと痛む。

 ごめんねと、紫龍が消えたドアを見ながら、沙織はもう一度、呟く。何だか涙が出そうになった。




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