「何?」と、部屋に入った途端、首筋に唇を寄せてきた一輝に、紫龍が軽く諫めた。
「こーゆことをするために、戻ってきたんじゃないだろうが」
「こーゆーことをするために、戻ってきたんだよ」一輝は黙って紫龍のボタンに手を掛けた。
「外にいれば綺麗な女の人なんて一杯いるだろうに」
「……女とやると後を引くからな」お前がいいからとは云えない男の言葉を判ったのか、
「そうだね」と、一輝の方に体重をずらしながら、紫龍は答える。
「女の人をそうゆう風に、使っちゃいけないよな」
「……」そう云われてしまうと、そうゆうものかもしれなが、これ以上、
その説教じみた言葉を聞く気には一輝にはない。そのまま唇を塞ぎ、舌を絡め、呼吸を止める。
言葉はない。点在する行為だけがある。紫龍はそれには応えようとせず、ただ一輝の好きにさせる。
ガキ大将の自由にさせる。すると男はその濡れた唇を紫龍の肌に寄せる。
雨のようなたくさんの口付け。貪るように紫龍の白い肌に唇を寄せる。何度も何度も舐め尽くす。
あの時も何も云わずに、ただ押し倒した紫龍を、思うのまま蹂躙した。
何の抵抗も示さないそのさまが、余計に煩わしく、何も云わない、
ただ自分をじっと見つめる黒い瞳が憎らしく、下半身の要求のままに紫龍を貫いた。
翌朝、気が付いてみると、紫龍はもう居なかった。いや、紫龍だけではなく、
あの獣のような睦みあいがあったとは思えない位の爽やかな目覚めであった。
カーテンを開けると緑の冷たい風で一瞬、自分が何処にいるかも判らない。
全ては泡沫のようで、あの記憶さえも夢のようであった。
………夢か。そう思うと納得できるものがある。いくら何でも、あのB・ドラゴンと互角に戦った紫龍が、
無抵抗に体を開いてくれるとは思えないし、第一あんなに美しい人間がこの世にいる訳がない。
透明な、指に吸い付く肌、シーツの上に散らばった妖しい文様の、鴉の濡羽色。
一房つまむと、そこらの売女とは比べものにならない懐かしい匂いが鼻孔を擽る。
一輝の背中に戸惑いながら触れた細い指。それから、娼婦が聖女に乱れていくように、
凌辱された被害者が一輝を深く剛く求める瞬間。自分の名前を依る全のように……。
あれが夢だったのかと、何となくがっかり自分を鼓舞するかのように、
食堂に降りると、陽射しのなか、柔らかな黒髪が揺れている。
ごくっと息を止めて、しばし、その姿を見つめる。まるで知らない人間のようである。
すると漸く、気付いたのだろうか。そこには紫龍が朝のように微笑んでいた。
「お早よう、よく眠れたか?」
それから時々、こうやって睦み合っているが、紫龍の態度はあの時と何ら変わることはない。
慣れているとは思うが、聞くほどのことでもなく、このままの関係が続いた。
何も語らなくても自分を迎えてくれる体があるというのは、案外に心地よいものである。
それが負けなら、それでもいいと一輝は思う。何にしてもこの温もりには代えがたい。
そのまま一輝は何もせずに紫龍の胸に顔を埋める。一輝の髪に自分の指を絡めていた紫龍が、
思い出したように囁いた。
「……本当は嬉しいんじゃなのか?」
「何がだ?」
「あれって彼がお前たちが帰ってくるのを待っていた証拠だからな」と、紫龍が微笑む。
その笑顔が気に入らなくて、一輝は露骨に顔をしかめた。
「お前に何が判る?」
「そりゃあ、確かに俺には関係のない代物だけどな。そうゆうのって、何か羨ましくてな……」
と、子供のように目を細める。
「ちゃんと名義がお前達個人の物だったろう。銀行に申し込むのだって、住所とかきちんと必要だし……」
それから紫龍は、プレゼントを手渡す少女のように微笑んだ。
「なあ、何で銀行が98個、お前と瞬を抜かしてみんな、別々か、判るか?」
「えっ?」と、驚いた一輝の顔に満足した紫龍が云った。
「あのな、子供たちが居た場所の銀行を選んだから、みんな違うんだよ」
「……」
「……少しは感動したか?」
「誰がだ!!」と、一輝は紫龍の上から顔を除ける。
「呆れただけだ」
「でも、何か嬉しいだろう、そーゆーのって」
そういう紫龍の方がよっぽど嬉しそうである。一輝はため息を付く。
「お目出度い奴だな、お前」
「何が?」
「たったそれだけのことだけで、あいつらのしたことが許せるのか?」
すると、紫龍はきょとんとした顔で、
「じゃあ、お前は今の自分が嫌いなのか?」と、云った。
「俺はスキだけどな、お前」
……突然のその台詞に一輝は二の句が繋げないでいる。
そんな男に畳み掛けるように、紫龍は云った。
「まさか、お前、あ×ひ銀行のうさこちゃんカードがほしかった理由でもないだろう」
「違うよ」
「それとも、お前…」紫龍は一輝の顔を覗き込む。目が無いのだから、見れる理由がないのだが、
瞬間、一輝は顔を背ける。すると紫龍はその顔を前に寄せ、指で一輝の顔を確かめる。
「……そうやって誰かのためになるのがイヤなのか?」
違うと、一瞬、息を呑んだ一輝が否定の言葉を口にしようとするが、
言葉は一輝の思うままにならない。紫龍は不意に一輝をその胸に抱き寄せた。
「………大丈夫だよ、一輝。そうじゃないことはちゃんと俺たちが知っているんだから」
……違うと、云いかけたその時だった。
「………兄さん、」とびきりの明るい笑顔が、ノックの音とともに飛び込んでくる。
「帰ってきたんだって………って、紫龍」その意外な人物にほんの少し、目が丸くなる。
「どうしたの、こんな所で?」
「ご挨拶だな、瞬」と、紫龍がいつもの微笑みを見せる。
その立ち上がった姿は、ボタンのかけ違いもないほどいつもと変わりない。
「お前が居なかったから、代わりでここまで案内したたけじゃないか」
「あっ、そうなんだ。ごめんね」と、云った瞬は気づいないのだろうか。
先程までの一輝と紫龍の秘密の時間を。だが、そんな一輝の思惑を無視するかのように、
「あのねえ、星矢が探していたよ、紫龍のこと」
そうか?と、扉の方に向く紫龍に一輝は一瞬、手を延ばそうとする。
「何だ?」そう聞いた紫龍はいつもと同じ顔であった。もう、一輝の紫龍ではなかった。
何でもないと、言葉短かに告げると、紫龍はにっこり微笑む。
「じゃあ、ごゆっくり」
「ああ」と、閉じられた扉に、一輝はため息を付く。
「どうしたの?」顔色の悪い兄を心配する弟に気付いた一輝は微笑う気にもなれず、むっつりと答える。
離れていた分だけ、その手のことに敏感になっているのだ。
これ以上、心配させるのは一輝のストレスに悪いと判っていても、
感情全てをセーブできるほど大人ではない。その点、奴は大したものだと妙な感心さえしてしまう。
紫龍にはやっぱり叶わないと。もしかしたら、あの時から。
瞬に気付かれないように一輝はもう一度、ため息を付いた。
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